チベットは非武装国家じゃありませんでしたが・・・

こういうブクマを見かけたので。

etherealcat コスタリカと日本では地政学的条件が違い過ぎるので何とも。日本に近い国で非武装政策を行った国の実例としてはチベットがあるので、そちらが参考になると思う。 2011/01/21

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20110120/1295541136

「参考になると思う」と書けるほどチベットに詳しいのなら、チベットが非武装政策など採っていなかったことは知っていると思うのだが・・・。

参考までに以前に書いた記事から。

1904年には、イギリス軍の遠征隊とチベット軍が戦ってます(イギリス軍負傷者6名に対し、チベット軍死傷者850名と言われてます)。そして、この時はイギリス軍がラサに進駐し、ラサ条約を締結しており、時のダライ・ラマ13世はモンゴルに逃亡しています。

http://ameblo.jp/scopedog/entry-10082660819.html

*1
但し、この頃のチベット清朝の宗主権下にありました。辛亥革命清朝が倒れ中国国内が混乱していた1912年にチベットは独立を宣言し、イギリスがシムラ条約でチベット自治権を承認しましたが、中華民国政府はこれを認めませんでした。1917年から1918年にかけて、中国国民党の軍隊とチベットの軍隊が交戦し、チベット軍は中国軍を追いやっています。
韓国中央大学校の徐相文は、「中国・チベット間における「十七か条協定」の締結過程と協定内容の分析」という論文で以下のように述べています。

第13代ダライ・ラマのトゥプテン・ギャツォ(1875〜1933)は、短いインド亡命を終えてチベット本土のラサに戻ると、国民党軍隊と官僚らを全員追い出し独立を宣言した。同宣言は1914年7月のシムラ条約において承認されたものの、国民政府はこれを即時に否定した。さらに国民党はチベットのカム(Kam=康=西康)全域に対する軍事統制権を取り戻した。
カム区が国民政府の手に落ちると、チベット本土に対する危機感を覚えた第13代ダライ・ラマは、中国との国境地帯に軍隊を増派し、1917年から1918年に掛けて国民党軍をドリチュ河の東側に追いやることに成功した。

つまり、チベットは独立宣言後も軍隊を保有していたのです。1930年の僧院間の争いでは、チベット軍と中国の四川軍が介入していますし、青海地方ではチベット軍と馬歩芳軍との戦いも発生しています*2



さらに日中戦争が終わり、中国内の国共内戦も終わった1950年10月ごろについて、上記論文では以下のように述べています。

チベット政府はアメリカ、イギリス、インド、ネパールに支援を要請すると共に、兵力を徴集し、中国軍の侵入を阻止するために、チベット軍の三分の二に値する5000人の兵力と、訓練を受けた地方民兵3000人の約8000人をチャムド地区と金沙江の西岸一帯に配置した。

これを見ると、当時チベットには約7500人の軍隊があり、民兵も3000人はいたことがわかります。1951年当時のチベットの人口は約115万人*3でしたから、人口比で言えば、0.65%にあたります。これはコスタリカ(警察と軍)の0.22%、ニカラグア(軍のみ)の0.26%、日本(自衛隊・海保)の0.21%と比べても大きな人口比です。

 コスタリカ(警察と軍) 8,000人 人口比0.22%
 ニカラグア(軍のみ)  14.000人 人口比0.26%
 日本(警察と自衛隊) 804,500人 人口比0.67%
(中略)
    自衛隊・海保のみなら0,21%

http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20100514/1273836462


1950年、中華人民共和国チベット併合のために侵攻した際にも、チベット軍は中共軍と交戦しています。チャムド地区の戦闘で、チベット軍は正規軍5000人と民兵3000人の合計8000人が戦ったものの、中共軍に圧倒され、5000人が殲滅、残りは捕虜か投降したそうです(以下、参照のこと*4)。

これに対し毛沢東は、韓国戦争に軍隊を送る直前の1950年10月7日に極秘でチベット攻撃の命令を下し、進撃を開始した中国軍は4組に分かれて4方向からチベットを攻撃した。中国軍の戦略的目標は、チベット軍の東への移動をけん制するために新疆から阿里に向けて攻めていく第3路を除き、残りの3路線が全てカムの聖都であるチャムド地区を攻略するものであった21)。
チベット政府は、チベット軍の主な戦力をチャムド地区に配置し、中国軍の進撃を阻止しようとした。最初からまるでダビデゴリアテの戦争のようであったが、チベット軍は死力を尽くして対抗した。しかし、チベットの兵力や武器は中国の正規軍と比べものにならなかった。結局、チャムド地区は2週間後の10月19日に陥落した。チャムド地区におけるチベット軍全体兵力の半分に値する約5000人が中国軍に殲滅され、残りは殆どが捕虜となるか投降した。捕虜や投降者の中には、チベット政府のカロン(中国名:噶倫)兼チャムド地区知事のアボ・アワン・ジグメ(Ngabou Ngawang Jigme、中国名:阿沛阿旺晋美)などの高官らと、指揮官30人余りが含まれていた。チベット軍の主力軍を撃退した中国軍は、戦闘が可能な季節で且つ後続の兵站補給ルートが確保されれば、即座にチベット本土のラサに進撃できる戦略的要地を確保した状況であった。

なお、チベット軍の総司令官はギメ・ソナム・ワンデュ(Khemey Sonam Wangdi、中国名:凱墨索安旺堆)だそうです。

ダライ・ラマは交渉の具体的な内容を協議するためのチベット代表として、アボ・アワン・ジグメ、チベット軍総司令官のギメ・ソナム・ワンデュ(Khemey Sonam Wangdi、中国名:凱墨索安旺堆)、宗教界代表のトゥプテン・テンダル(Thupten Tenthar、中国名:土丹旦達)、トゥプテン・レクヌン(Lekunuun, 中国名:土登列門)、サンポセイ・テンジン・ドゥンドゥプ(Sampsey Tenzin Thundup, 中国名:桑頗登筯頓珠)の5人を選んだ。主席代表については、チャムド戦闘において中国軍の捕虜になった経験のあるアボ・アワン・ジグメが志願し、彼を任命した。

興味深いのは、「コスタリカは非武装ではない!」的な主張をしている自称リアリストな軍ヲタの中に、チベットが非武装国家だと勘違いしていること。
例えばこの人。

ルクセンブルクアイスランドは、大戦中の一時的な占領に終ったのが不幸中の幸いでした。これが世界大戦後のチベットなどになると、非武装でいたら共産中国に攻めてこられ、虐殺には遭うわ、文化は破壊されるわ、その後現在にいたるまで自由と人権を抑圧されたままになっています。

http://d.hatena.ne.jp/zyesuta/20100102/1262421475

「非武装でいたら共産中国に攻めてこられ」なんて言ったら、チャムド戦闘において中国軍の捕虜になったアボ・アワン・ジグメなどは泣いちゃうんじゃないでしょうか。

他に↓こういう人もいますね
非武装中立の理想と現実(チベットのように占領される): 開張足は快調

「非武装国家を否定する欲望が先に立つあまり」*5、”非武装のため侵略されたチベット”というのを幻視しているようにしか思えません。

北京週報に記載されたチベット

チベットの地方武装力――チベット軍(1958) -- pekinshuho

しかし、ここ100年来、イギリス人はチベットを中国から切り離し、なんとかして分裂主義勢力チベット軍をコントロールさせようと企み、 1917年以後、チベット軍は大挙して東へ進撃し、四川、西康の境界を大挙して侵犯した。1918年には、チベット軍はチドゥゾン(現在のティンチェン県)の労役と租税が重すぎるため陳情を行った大衆に血生臭い弾圧を行った。1947年に、チベット軍はセラ寺とラチェン寺の僧侶たちを殺害するとともに、なにもはばかることなく略奪を行った。1949年に、チベット軍は国民政府チベット駐在事務所などの機関を包囲し、ラサに設けられていた国民政府のラジオ放送局と学校などを閉鎖した。

1950年9月、中国人民解放軍チベットに進軍し、もとの地方政府の中の親イギリス分子はチベット軍を派遣してそれを阻止させ、結局、チベット軍の大部分はチャムド戦闘の中でせん滅され、デゲ・ゲサンワンドィが率いる軍隊の将兵全体が武装蜂起を行い、中国人民解放軍に再編され、チャムドに駐屯して、建設に参加し、有益な貢献をした。1959年3月、その他のチベット軍各部隊は少数のもの以外、武装反乱に参加した後全部せん滅された。

中共視点ですが、大筋このような流れであったのでしょう。

チベット仏教の教理から常備軍を持たなかった?

そういう話はありますが*6、18世紀後半のグルカ戦争(1788年)の時代ですから近代的な制度が確立していなかったというだけで軍隊がなかったわけではないようです。実際、第二次グルカ戦争(1791年)ではチベット軍が参加していますし、1750年にはチベットの宰相ギェルメー・ナムギェルがチベットの軍隊を集結させ清朝軍を追い払おうとしています*7

チベットはなぜ独立できなかった?

単純に答えられる話ではありませんが、非武装だったからではないのは確かでしょう。
重要なのは軍隊の有無ではなく、外交ではないかと思います。
第二次大戦中、中国蒋介石政権を支援するためのビルマルートが日本軍に絶たれた際、中華民国、アメリカ、イギリスの特使がインドから南チベットを経て重慶に至る新補給ルートの建設にチベットも協力するよう申し入れたことがありましたが、チベットは中立を守ると言って拒絶しました。
チベットの独立が国際的に確固として認められていたのなら、この中立政策は正しかったかもしれません。しかし、1914年のシムラ条約(イギリス・チベットは調印、中国は仮調印のみ)でさえ、チベットの宗主権は中国にあるとされており、チベットの独立は非常に不確かなものでした。
もし、この時チベット連合国側に協力する事を条件として独立国としての立場を強化するような外交を展開していたら、1950年の中共侵攻の際に、アメリカ、イギリス、インド、ネパールから実質的な支援が得られたかもしれません*8

Article 2.

The Governments of Great Britain and China recognising that Tibet is under the suzerainty of China, and recognising also the autonomy of Outer Tibet, engage to respect the territorial integrity of the country, and to abstain from interference in the administration of Outer Tibet (including the selection and installation of the Dalai Lama), which shall remain in the hands of the Tibetan Government at Lhasa.

The Government of China engages not to convert Tibet into a Chinese province. The Government of Great Britain engages not to annex Tibet or any portion of it.

http://en.wikisource.org/wiki/Simla_Accord_(1914)

*1:「日本人の目から見たチベット通史」P208、チベット軍死者628名、負傷者222名という記録がある。

*2:「日本人の目から見たチベット通史」P215

*3:http://japanese.china.org.cn/life/archive/xizang05/node_2234044.htm

*4:「中国・チベット間における「十七か条協定」の締結過程と協定内容の分析」

*5:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20110120/1295541136

*6:「日本人の目から見たチベット通史」P196

*7:時のダライ7世が清朝と協力して鎮圧したが、清兵100余人が皆殺しにされたという。「日本人の目から見たチベット通史」P193

*8:それ以外にも、インフラ整備の面で利益があったでしょうし、特にインド方面への通商路の確立はチベットにとって中国から距離をとるための貴重な資源になったはずかと思います。