南京事件を否定したい人が最初に覚えるのが、南京事件直前の南京人口は20万人だった、説です。この俗説は、東京裁判時には既に30万人以上という犠牲者数を否定しようと利用されていますので古典的な俗説と言えます。
この俗説は否定論や過小評価説を支える極めて初歩的な根拠のひとつですが、この人口20万人説を支持する信頼できる統計資料については存在が確認出来ません。
もっとも、20万人を示唆する史料が皆無というわけではありません。
南京事件当時に国際難民区を管理した外国人たちの日記などに、これを示唆する記述があるのは確かです。
しかしながら、これらの記述は伝聞形式が多く、対象となる範囲も不明瞭で、信頼できる統計資料とは呼べません。
スマイスの記述「南京戦禍の真相」
The city of Nanking had before the war a population of just 1,000,000, which was considerably reduced by repeated bombings and latterly by approaching attack and the removal of all Chinese governmental organs.
http://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938
At the time the city fell (December 12-13), its population was between 200,000 and 250,000.
スマイスは陥落時人口を「20万〜25万人」と記載していますが、この数値の根拠については記載していません。1938年3月に行なわれたスマイス調査から市部人口は27万人程度と推定されたため、陥落時も同レベルの人口だったと判断したように思われます。他にも、難民区の人口や陥落前の難民数予測などが概ね20万人であったことも、「20万〜25万人」と判断の根拠だったと思われますが、いずれも統計資料ではありません。
1937年11月23日時点の記録
以下は、笠原氏の「南京事件」にも収録されている内容です。
南京市政府(馬超俊市長)が国民党政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡
http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/jinkou/jinkou06.htm#batyousyun
(37年11月23日)
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約五〇余万である。将来は、およそ二〇万人と予想される難民のための食糧送付が必要である。」(中国抗日戦争史学会編『南京大虐殺』)
笠原十九司『南京事件』 P220
興味深いのは人口約50万人と推定される11月23日時点で、将来20万人の難民が発生すると予測されている点です。
南京市政府が南京城区の行政を掌握していた11月時点の調査ですので、流動のため正確ではないにしても人口は約50万人であったことはある程度の信頼性があります。しかし、20万人が難民になるとどのように予測したのでしょうか?
まさか、当時南京にいた50万人に将来の意向を聞いた回ったわけはなく、何らかの参考となる指標があったはずです。
ジャキノ安全区
南京攻略戦の直前、1937年8月から11月にわたって上海で日中の攻防戦が展開されていましたが、この時租界内に50万人に上る中国人難民が流入しました。国際租界内には日本軍も中国軍も入れませんので、難民は租界内を目指したのです。しかし、国際租界工部局*1は混乱を嫌い、これ以上の流入を避けようとしました。実際、フランス租界に接した南市には、25万人もの中国人難民が押し寄せ租界への避難を求めていました。
そこで、ジャキノ(Jacquinot)神父の安全区案に賛同し、南市に安全区を設立したわけです。日中双方と交渉し、安全区の地位が確認され、25万人の難民を収容したのです。
当時、上海は300万人都市でした。そこでの戦闘で発生した難民が租界内に50万人、安全区に25万人。難民合計75万人。
一方、南京は当時100万人都市でした。上海と同じ比率で難民が発生するなら、南京では25万人の難民が予想されます。
ジャキノ安全区は、南京での国際難民区設立の参考とされたものです。ジャキノ安全区が運用され始めた1937年11月に、南京でも安全区の構想が練られたわけです。上海同様の大都市であることから、想定する難民の人数も当然、上海の事例を参考にしたと思われます。
これが南京での難民数予測の数字として利用され、ラーベやスマイスらはこれを基準に難民区の準備をしたのでしょう。11月下旬からラーベ日記でも「20万以上の難民」の文言が見えるようになります。
ジャキノ安全区内の難民は後に30万人にまで増えますが、租界内を初め安全区外にも当然に民間人は残っていました。
同様に南京でも当初難民区に集まった20万人の難民が後に25万人に増えますが、難民区以外にも民間人は残っていたでしょう。少なくとも南京人口20万人説は限りなく虚構に近いといえると思います。
*1:国際租界の行政をつかさどる機関