南京陥落までの人口動態

以下は、スマイス調査の表1の注釈の一部です。

On May 31, the residents registered in the five district offices of the municipal government (including Hsiakwan, but apparently no other sections outside the gates), numbered 277,000.

This figure is admittedly incomplete, particularly as to women and children, and is commonly amended to nearer 400,000, One year ago the population of the Nanking Municipality was just over 1,000,000, a figure sharply reduced in August and September, rising again to nearly 500,000 in early November. The old Municipality included a larger area than is now considered, comprising at least one-tenth more in population.

http://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

前半は1938年5月31日時点の南京城内(下関のみ含む)の登録人口*1が27.7万人であったこと、その数字は女性と子供の人数がとくに不完全であり、40万人に修正されたことが書かれています。
それ以降は、南京陥落以前の1937年の人口動態に関してスマイスが述べている部分です。

One year ago the population of the Nanking Municipality was just over 1,000,000, a figure sharply reduced in August and September, rising again to nearly 500,000 in early November.

(試訳)1年前(1937年)の南京市の人口は100万人以上であった。その数は8月・9月に急激に減少したが、11月上旬になると再び増加し50万人近くに達した。

この文章を素直に解釈すれば、南京市の人口は一様に減少したのではなく、上海事変が始まった8月から9月にかけて急激に減少し、その後、上海が陥落した11月上旬になって増加に転じたということになります。
時期を考慮すれば、この増加分は上海方面からの難民・敗残兵であることが推定できます。
これを踏まえると、警察庁長であった王固盤が11月28日にラーベに語った「南京には中国人がまだ二十万人住んでいる」の内容が想像できます。すなわち、王固盤が語った20万人とは元々南京に住んでいた住民の数で、流入した難民の数を含んでいない、ということではないか、ということです。

参考:http://www.360doc.com/content/10/0730/17/91396_42546670.shtml

もっとも、王固盤の正確な発言内容がわかりませんので想像の範疇を出ませんが、11月23日に50万人であった人口がわずか5日後に20万人になる不自然さは説明できます。

ちなみに笠原十九司氏は、南京陥落当時の人口について以下のように述べています。

(略)いっぽうでは、南京防衛軍の「清野作戦」の犠牲になった城壁付近の膨大な農民が難民となって城内に避難してきたし、日本軍の南京進撃戦に追われた広大な江南地域の都市、県城からの難民も移動してきた。したがって、南京攻略戦が開始されたときに、南京城区にいた市民はおよそ四〇万〜五〇万人であったと推測される。

*1:傀儡政府による登録