大山事件(虹橋飛行場事件)の背景としての上海停戦協定第2条における“非武装地帯”に関する件

上海停戦協定(淞滬停戦協定;Shanghai Ceasefire Agreement)は1932年に起きた第一次上海事変の停戦協定です。1937年8月9日の大山中尉事件(虹橋飛行場事件)について日本側が言及する際、中国軍による停戦協定違反があったと主張することがよくあり*1、それを絡めて大山事件における中国側の対応非難につなげられています。
では、実際に大山事件に関して、中国側の停戦協定違反があったのでしょうか。

上海停戦協定

第2条 中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし。前記地点は本協定第一附属書に掲記せらる。

これが中国側に対して一定地域内への中国軍の進駐を禁止させる根拠条文で、一種の非武装地帯の設定になります。

非武装地帯の範囲

この非武装地帯の範囲を示したのが第一附属書です。

第1附属書

本協定第二条に定むる中国軍隊の地点左の如し
付属縮尺十五万分の一郵政地図上海地方参照
安亭鎮の正南方蘇州河上の一点より北方安亭鎮の直ぐ東方のクリークの西岸に沿ひ望仙橋に至り、次て北方にクリークを越え沙頭の東方四キロメートルの一点に至り、次て西北揚子江上の滸浦口に至り且之を含む
右に関し疑を生するときは問題の地点は共同委員会の請求に依り共同委員会の委員たる参加友好国の代表者により確めらるへし

この附属書の条文に記載されている安亭鎮、望仙橋、沙頭、滸浦口は蘇州河以北の地域の地名です。協定の記述そのものを見る限り、蘇州河から長江への線のみが定義され、それ以外については定義されていません。黄浦江東岸の浦東地区の停止線も蘇州河南岸地区の停止線も設定されておらず、日中間には合意が存在していないわけです。理由は、第一次上海事変の戦闘が蘇州河北岸のみで行われ、蘇州河南岸や黄浦江東岸で日中両軍が対峙するような状況になっていなかったことが挙げられます。これは蘇州河北岸で対峙する両軍を引き離すための中国側の停止線として、停戦協定第2条と第1附属書が機能していることを示しています。安亭鎮から滸浦口までの線に中国軍が展開していたからこそ、戦闘を停止するために「其の現駐地点に止まるべし」という条文で合意されたわけです。
したがってこの条文は厳密に言えば、非武装地帯の根拠条文とは言えません。地域を定義し、その地域内への進入を禁止するような条文になっていないことからも明らかです。

“非武装地帯”の地図

第1附属書は蘇州河北岸、安亭鎮から滸浦口までの線しか定義していませんが、協定締結後に日本側が作成した地図にはそれ以外の部分にも線が記載されています。
1932年5月6日の大阪朝日新聞に掲載された地図がこれです。

1932年に日本陸軍省が作成した資料「上海停戦協定の成立と其経緯」に掲載されている地図がこれ。

戦後ですが戦史叢書に掲載されている地図がこれです*2

虹橋鎮の取扱いなど黄浦江東岸浦東地区や蘇州河南岸地区における停止線の認識が日本側内部でさえ統一されていないことがわかります。

停戦交渉

実は、欧米の仲介の下での日中間での停戦交渉において、停止線をどこに置くかというのは大きな論点になっています。日本側の目論見としては、停戦協定を利用して河北省東部で行ったような非武装地帯を設定し中国軍を追い出し、当該地域を日本勢力下におくというものがあったのでしょう。これに対して中国側は日本側による前述の手口を警戒して、“停止線であって非武装地帯にあらず、未来永劫に適用されるものではない”と主張しました。

交渉中の日中双方の“非武装地帯”に関する主張

上海停戦協定の成立と其経緯

陸軍省調査班編、昭和7年

(P20-22)

日支両国の主張

論議の要点に関し逐条述べたると大要左の通りである。
第一条 (略)
第二条 支那軍は後日取極あるまで現駐地に留る云々は、支那側は将来余儀なく上海附近非武装地帯設置の前提となるを虞れ、苛も自国の領域内に於て自軍の行動を制限するが如き規約は、主権を侵害するものなりと称し容易に応ぜなかったが、帝国は少なくも上海事件一切解決するに至るまで、支那軍が上海附近に接近するは断じて許容し難く、且右条文は基礎案に於て既に協定済なることを根拠として、厳に之が明記を主張し、結局支那側は永久的に自国軍の行動を束縛するものにあらざることを諒解し渋々之に応じた。
支那現駐地点は第一回の会議に於ては、蘇州河以北は概ね安亭、太倉、滸浦鎮各東側の線を指示し、蘇州河以南は、会議第二日に於て該地方は戦闘せざりし地域なれば、現駐地点を示すの要なしと言い張りしも、論議の末遂に華曹鎮(江橋の対岸)虹橋鎮、龍華鎮の三点を指示し、之は線にあらずして単に軍隊の最前駐屯地を示すものなりとて、四国武官*3も之を是認して之以東へは兵を移動せしめずと保証した、然るに支那側は後に至りて「支那軍の留るべき地点を示すのは、実際戦闘の行われたる地域に限る」ものにして、蘇州河以南及び浦東は本協定以外なりと主張し、帝国は斯くの如きは第一条にも関係し殊に黄浦江東側地区は、日本軍の側背を安全ならしむる為にも、又居留民保護の為にも重大なる関係あるを以て、支那軍の位置を規定せざるべらかずと主張し、支那側また日本側の主張せらるる危険は、事実に於て支那軍は過去将来共に積極的行動に出でざるにより、其憂なしと言い張り仏国公使代理より折衷案出でたるも纏らず、蘇州河南方及び浦東方面の地点を指示することは支那は頑強に拒否したが、結局一定地域内には支那軍は進出せざる旨の信書を四国武官に手交することとし落着した。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1211583

停戦交渉の終盤、日本側は虹橋鎮と龍華鎮を“非武装地帯”に含めよと言い出し、これに対して中国側が拒絶し、双方の応酬の結果、中国側は虹橋鎮まで下がるが虹橋鎮に駐留するし、虹橋鎮が停止線であるとも認めないし、協定にも明記しない、という形で決着しています。
この中国側の自発的な停止線を、日本側が租界と虹橋鎮の間に曖昧に引いた結果が、上記の“非武装地帯”の地図です。
蘇州河以南の停止線に関する争点については、以下の地図を見るとわかりやすいでしょう。

出典:「昭和六、七年事変海軍戦史(軍機) 第三巻」*4

*1:事件当日には朝日新聞が「停戦協定違反事件」であると報じている。http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101127/1290878712

*2:http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101205/1291555654

*3:英米伊仏

*4:「第一次上海事変の停戦交渉 −交渉の難航と海軍、陸軍、外務省の係わり−」影山好一郎、防衛学研究 第31号 2004年7月、P16-35 より