大山事件と第二次上海事変の背景・2

前回の続き。

大山勇夫中尉遭難事件(1937年8月9日)の疑問

大山事件は、日本海軍陸戦隊西部派遣隊隊長の大山勇夫中尉が虹橋飛行場前で中国軍に銃撃され殺害された事件です。しかし、この事件は色々不思議なところがあります。最も大きな疑問は、大山中尉は当時どこに行くつもりだったのか、という点です。
事件当時の上海は緊張状態にあり、中国側保安隊による検問や陣地構築などが為されていました。そのような状況下に日本海軍将校が、市街地から外れた中国側の軍用飛行場まで何しに行ったのか、その点に大きな疑問があります。


矛盾する日本側の説明

日本外務省は1937年8月11日に以下のように説明しています。

2. Sub-Lieutenant Oyama was on his way to the Headquarters of the Naval Landing Party from the western outpost (where one company of the marines is stationed) of which he was commander and whose duty it was to safeguard the lives and property of the Japanese in this district.
アジア歴史資料センター「外務省 支那事変公表集」レファレンスコード:B02030682100

http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101201/1291218960

大山中尉は、西部派遣隊本部から海軍陸戦隊本部に向かう途上だったと説明しています。しかし、これは明らかにおかしいと言えます。

大山勇夫中尉の部下であった原田勝一によると、中隊本部は内外紗廠水月倶楽部におかれ、才登路(ゴードン路)(現・江寧路)沿いにあったと言う。
内外綿社員クラブであった水月倶楽部に中隊本部がおかれていたというのは「上海大山事件の真相」にも記述がある*2。
当時の地図を確認すると、才登路(ゴードン路)(現・江寧路)沿いに内外綿本社があるので、ここに中隊本部がおかれたのだろう。内外綿本社は、東に才登路(ゴードン路)(現・江寧路)、西に西寧路(現・陝西北路)、北に檳榔路(ペナン路)(現・安遠路)、南に海防路に面しており、共同租界内にある*3。
つまり、西部派遣隊本部から共同租界内を通って簡単に陸戦隊本部へと行ける。その距離は直線距離で6キロほど。一方、西部派遣隊本部から虹橋飛行場前の事件現場に行くには、陸戦隊本部と全く反対方向に直線距離で約12キロほど行かねばならない。
8月9日夕方、大山勇夫中尉がモニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)に行ったことは明らかに不自然な行動である。

http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101204/1291471748

大山事件関係の位置関係

A:大山海軍中尉が1937年8月9日に遭難する直前に待機していた上海海軍陸戦隊西部派遣隊本部
B:大山海軍中尉が遭難した虹橋空港
C:日本資本の西部紡績工場
D:上海海軍陸戦隊本部

地図で見ても明らかですが、外務省の説明どおり西部派遣隊本部から海軍陸戦隊本部に向かったとしたら、虹橋飛行場付近になど通るはずもありません。
別の説明では、大山中尉は日本資産の西部紡績工場を視察したというものもありますが*1、これも説得力皆無で、紡績工場の場所もまた虹橋飛行場から遠く離れていることが地図から明らかです。
大山中尉が海軍陸戦隊本部に向かったとしても西部紡績工場視察に向かったとしても、虹橋飛行場付近を走ることは常識的にありえません。これを論理的に説明できている文書は今まで見当たりません*2

大山中尉の真の目的は、虹橋飛行場の偵察というスパイ行為だった

と考える以外に説明がつきません。
実際、日本海軍軍人が虹橋飛行場をスパイしに行ったことについては記録が残っています。1934年9月10-11日に日本海軍の中島少佐が民間人に偽装して虹橋飛行場を偵察した記録です。東亜同文書院の知人を利用してスパイ活動をさせる予定まで書かれています。

龍華・虹橋飛行場視察報告
 出雲飛行長海軍少佐 中島傳
一 期日
 龍華 九月十日
 虹橋 九月十日、九月十一日
(略)
三 虹橋飛行場
本飛行場は空軍の管轄にして格納庫上に国旗を掲揚しあり
上海税関碼頭より自動車25分行程にあり
九月十日視察の時は正門迄自動車を乗りつけたる処衛兵に制止せられ入場不可能なりしを以て翌日は虹橋鎮にて車を捨て無帽ノーネクタイ上衣を脱し徒歩にて飛行場に赴き正門の手前より右に折れ飛行場を望見せるも詳細不明なり然れども大体視察し得たる点左の如し
尚本飛行場に関しては知人たる同文書院学生をして機会ある毎に調査せしむる予定なり
(イ)警戒厳重なり
(ロ)格納庫は相当大なるもの一棟あるも後方より望見せるため内容大きさ等不明なり
(ハ)事務所等は極めて小さし
(ニ)無線柱を認めず
(ホ)飛行場の面積不明なるも相当大面積にして手入れも良好なる如く見受けたり大型機の発着も容易なり
   附近は畑ゴルフリンクス等にて全然障害物なく容易に拡張し得べし
(ヘ)格納庫外に先日独逸より空輸し来たれる(所要日数七日)欧亜航空公司のユンカー機を認めたり
アジア歴史資料センター「出雲機密第33の22号 昭和9.11.11 中国飛行場視察報告の件」レファレンスコード:C05023611900

http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101204/1291468875

1937年8月9日の大山中尉の“視察”も、西部紡績工場の視察ではなく、虹橋飛行場の“視察”、要するにスパイ活動だったというのが、当日の大山中尉の行動を一番論理的に説明できるでしょう。
東中野修道氏などは、大山事件を中国側の計画的な謀略だと主張していますが*3、これはありえません。日本海軍将校が中国軍が警戒している地域内に侵入してくるのを待ち伏せるなど論理的にありえないからです。

参照:「歴史学研究で使えるのは三等史料まで」と言った東中野氏が五等史料を使っている件
参照:大山事件に関連する場所の位置関係

どうやって、虹橋飛行場まで辿り着いたのか?

1937年8月ほどの緊張状態にない1934年でさえ、日本海軍軍人は虹橋飛行場正門で警備兵に制止され入ることができませんでした。華北で日中両軍が戦闘状態に入っている1937年8月はより困難だったはずです。
実は事件当時の報道に以下のような記述があります。

【上海特電九日発】日本海軍特別陸戦隊午後九時四十五分発表
(略)右のモニュメント路は共同租界のエキステンション*3であり各国人の通行の自由のある所であるに拘らず支那側は最近上海の周囲に公然と土嚢地雷火鹿柴などの防御施設を構築し夜間は兵力を以て勝手に通行を禁止し昼間にても通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査するなどは明かなる停戦協定無視なるのみならず、共同租界居住各国人に対する侮辱である、(略)

http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101125/1290793573

中国側の“不法行為”をなじる論調ですが、重要なのは「上海の周囲に公然と土嚢地雷火鹿柴などの防御施設を構築し夜間は兵力を以て勝手に通行を禁止し昼間にても通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査する」という部分です。このような警戒態勢にある中、日本海軍軍人が公然と、中国軍用飛行場正門まで辿り着けたのでしょうか?
中国軍にとっても重要な軍事施設である虹橋飛行場に、華北で戦闘中の敵国軍人が公然と入ってくることを許すでしょうか?
しかし、事件は虹橋飛行場正門前で起きました。
大山中尉が虹橋飛行場までたどり着いたのは事実です。ではなぜ辿り着けたのでしょうか?

便衣兵・大山勇夫

日本では当時公開されなかった以下のロイター報道があります。

二、ロイター通信 虹橋飛行場に隣接せる一英国人談
「最近数日来日本人数名は飛行場付近を頻りにうろついていたが支那哨兵のため妨げられていた。九日午後五時頃一日本人運転の自動車が日本人一名を(共に水兵に非ず)客席に乗せ飛行場に入らんとせるため哨兵より発砲うち一名即死、他の一名は逃亡した事件あり。支那側でも一名死亡又は負傷した。尚該英人の姪(二名)は事件のためルビコン橋を渡り市内に行くのに支那保安隊一名及び工部局員一名の保護を受けるを必要とした。彼等は八時に至るも帰宅せぬ。工部局警察副総監エアーズ*5は現場に行かんとして同橋の支那保安隊に阻止せられ止む無く帰還した。」
アジア歴史資料センター「情報委員会8・10 情報第二号 同盟参考内報」レファレンスコード:A03023889400 )

http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101129/1291053129

「最近数日来日本人数名は飛行場付近を頻りにうろついていた」とあり、日本軍が当時執拗に虹橋飛行場をスパイしようと探っていたことがわかります。そして大山中尉を指すと見られる「一日本人運転の自動車が日本人一名を(共に水兵に非ず)客席に乗せ飛行場に入らんとせる」は事件の様子を伝えています。特に「(共に水兵に非ず)」という記述は重要です。虹橋飛行場付近に住んでいたイギリス人には、自動車に乗っていたのが日本軍人には見えなかったのです。
ちなみに日本が当時発表した内容は以下の通りで、大山中尉は軍服だったと主張しています。

帝国海軍陸戦隊は厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に厳正なる態度を以て徹底的解決を期せんとす、なお同中尉は軍服であったことを付記する

しかし、日本軍当局には西部派遣隊本部を出発した際に軍服だったことはわかっても虹橋飛行場侵入時に軍服を着ていたことは知りえません。
そこで1934年の中島少佐のスパイ行為を思い起こす必要があります。「翌日は虹橋鎮にて車を捨て無帽ノーネクタイ上衣を脱し徒歩にて飛行場に赴き正門の手前より右に折れ飛行場を望見せる」とあるように、帽子、ネクタイ、上着を脱げば、民間人に偽装できたわけです。
大山中尉も8月9日当日、帽子、上着を脱いで、民間人に偽装したと考えられます。時間帯は17時から18時、8月とは言え薄暮にかかる頃で、帽子・上着と言った軍人の特徴的な服を脱げば、遠目には民間人と区別できなくなったでしょう。このように民間人に偽装した大山中尉は、保安隊の検問を突破して虹橋飛行場正門まで辿り着き、偵察しようとしたものの中国側警備兵に発見され、結果射殺されたと考えられます。

民間人偽装の傍証

ロイター電にあるイギリス人の証言、1934年の中島少佐の前例が、大山中尉が民間人に偽装していたことを示す傍証と言えますが、もう一点傍証が存在します。

「各社特派員決死の筆陣支那事変戦史」新聞タイムス社編、1937年、P507
眼を蔽う暴虐の現場
【上海大毎・東日特電十日発】(略)
 大山中尉の死体は虹橋路を虹橋飛行場に突き当って右に折れ碑坊路(モニュメント路)*10を北行すること約七、八町*11鉄条網を張りめぐらした飛行場の北端に近い路傍、血の海の中に横たわっていた、(略)斉藤一等水兵の死体はそれより東方十数米の豆畑の中に哀れにも仰向けに放り出されてあった、(略)両名とも身ぐるみ全部掠奪されている、(略)

http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101127/1290868711

日本側が大山事件の残虐性を誇張する際によく利用される話ですが、大山中尉・斉藤一水ともに「身ぐるみ全部掠奪されている」と書かれており、軍服を着用していないことがわかります。これは別の記事と並べるとかなり不思議です。日本側は、大山中尉は軍服を着用していたと主張している一方で、死体は軍服を着用していないのです。死体が軍服を着用していないのなら「同中尉は軍服であったこと」などわからないはずです。
ロイター電にあるイギリス人の証言、1934年の中島少佐の前例を踏まえると、そもそも大山中尉は事件当時軍服を着用しておらず、民間人に偽装していたため、殺害された後の死体も軍服を着ていなかった、と整合的に推定できます。日本の軍人が民間人に偽装して中国の軍事施設を偵察し、その際に中国兵に射殺されたのであれば、非はむしろ日本側にあります。それを否定するために日本側は「身ぐるみ全部掠奪されている」ことにして、「同中尉は軍服であった」と主張した、と考えるとつじつまが合います。