日本海軍による虐殺行為を示唆する戦史叢書の記述

戦史叢書にこういう記載があります。

(「戦史叢書 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年三月まで」P468-469)

南京突入後の各隊の行動

 十四日、第一警戒部隊各艦艇は敗残兵の掃蕩、航路の啓開を続行した。その概要は次のとおりである。掃四は蕪湖に進出。「二見、熱海」は草鞋峡水路を啓開。「比良」及び特掃二隻は鎮江において天谷支隊の渡江作戦に協力。特別作業隊は烏龍山閉塞線の拡大啓開に従事。「保津、鵲、安宅、鴻、江風」は、「パネー」遭難地にあって救助作業に従事。各艦艇は陸戦隊を揚陸して江岸の敗残兵を掃蕩、下関の海軍碼頭、中山碼頭一帯を占拠。
 十五日、「栂、掃二号」はそれぞれ南京下流及び龍潭水道において残敵掃蕩。「保津、鵲」は徹宵執拗な敵の狙撃を冒してパネー遭難者救援作業に従事した。〇一〇〇米国砲艦オアフ及び英国砲艦レディバードは遭難者の収容を終わり、「鵲」は両艦を嚮導下江した。また「保津」は蕪湖に進出、夕刻同地に到着した。
 十六日、南京附近在泊艦艇は十五日夜から引き続き江上を漂流する残敵を掃蕩した。また「二見、勢多」は終日寶塔水道一帯の残敵を掃蕩するとともに、「勢多」は陸戦隊を揚陸し、硫安工場一帯の敵陣地を占領した。
 十七日午後、南京入城式が陸海軍部隊によって行われた。中山門から入城の陸軍部隊と呼応し、長谷川支那方面艦隊司令長官、大川内上海海軍特別陸戦隊司令官、近藤第十一戦隊司令官は各幕僚を従えて挹江門から入城、中山路に堵列する上海海軍特別陸戦隊の二コ大隊と艦艇陸戦隊の閲兵を行い、式場たる国民政府に向かった。このとき海軍航空部隊も陸軍航空部隊と共に、陸上部隊の入城と呼応して空から編隊入城し、南京上空で分列式を行った。かくして南京攻略作戦は終結した。


わかりやすいのは「十六日、南京附近在泊艦艇は十五日夜から引き続き江上を漂流する残敵を掃蕩した」の部分ですね。

NNNドキュメント“シリーズ戦後70年”『南京事件・兵士たちの遺言』(2015年10月4日放送)*1でも、第24駆逐隊の戦闘詳報で12月16日に、安宅、勢多と第24駆逐隊(山風、涼風、海風)(江風欠)が「敵敗残兵掃蕩戦闘」を行った記録が紹介されています。その敵敗残兵とは、「南京上流ヨリ筏ニテ逃走セントス」という戦闘能力を失った状態にありました。それを殺害して回ったわけですね。

「江上を漂流する残敵を掃蕩」というのは、虐殺行為としてわかりやすい部分です。まあ、今の日本人にとっては、筏で漂流している敵兵を一方的に殺害する行為は戦闘行為なのでしょうが。
「掃蕩」という文言は、上記引用した記述中では14日、15日、16日に出てきます。これらも実態としては戦闘行為とは程遠い状況だったと思われますが、同時に南京附近在泊艦艇によるこの掃蕩は太田寿男少佐の証言内容とかぶるところがあるようにも思えます。