「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111198600、支那事変 戦闘詳報綴 昭和13年(防衛省防衛研究所)」
支那事変ニ於ケル歩兵第三十三連隊隷下部隊戦闘概況表
南京附近戦闘 自十二月十日 至十二月十三日
第一大隊
十一日連隊予備トシテ黄馬ニアリシ大隊ハ午前三時連隊命令ニ依リ右側支隊ニ配属ヲ命セラレ午前七時該地出発仙鶴門鎮ニ至リ右側支隊長ノ指揮下ニ入ル
大隊ハ支隊予備トナリ一部ヲ馬営東側高地及楊坊山両端ニ出シ敵陣地ニ対シ警戒セシム
十一日夜主力ハ東馬頭ニテ夜ヲ徹ス
十二日大隊ハ支隊ノ先遣大隊トナリ宿営地出発馬営附近ヲ経テ先十字街子家営附近ニ進出シ和平門中央門ヨリスル敵ノ退路ヲ遮断セントシ午前九時堯北門西端ニ宿ス、午後四時十分574高地ヲ奪取シ次デ二時五十分十字街東方高地ニ進出シ該地ニテ歩兵第三十八連隊長ノ指揮下ニ入ル
十二日夜該地ヲ確保シ夜ヲ徹ス
十三日午前十時半紅山占領シ次デ独断下関ニ向ヒ追撃シ該地ニテ敵敗残兵ヲ三千名殲滅ス
十三日夜ハ下関ニテ夜ヲ徹シ十四日南京城内ヲ掃蕩ス第二大隊
大隊(第八中隊欠)ハ十日午前七時本隊ノ先頭ニアリテ下麒麟門出発本道北側地区ヲ■家堤附近ニ進出ス午前九時頃右第一線大隊トシテ紫金山■高地ニ向ヒ攻撃前進ス午後六時第一線中隊ハ唆崩ノ攀登シ遂ニ稜線上ノ敵ヲ撃退シ之ヲ占領ス
次デ稜線ニ沿ヒ戦果ヲ拡張スルニ決シ十一日未明夜襲ヲ以テ385高地ヲ奪取ス
大隊ハ直ニ戦果ヲ拡張シ371高地脚ニ追セル其■同高地面端ノ敵陣地及第一峰ノ中腹ノ「トーチカ」ノ為戦闘意ノ如ク進捗セズ日没ニ至ル
十二日友軍砲兵連隊砲協力ノ下ニ376(閉鎖面■高地)ヲ攻撃ス午後一時敵陣地ニ突入シ日没前確実ニ同地高地ヲ占領スルヤ直ニ戦果ヲ拡張シテ第一峰ニ攀登シ午後六時完全ニ同峰ヲ占領ス
大隊ハ直ニ天文台高地方向ニ戦果ヲ拡張シ明払暁ノ攻撃ヲ準備ス
十三日当面ノ敵ハ退却セルヲ以テ直ニ追撃シ午前八時天文台占領午前九時十分太平門ヲ占領ニ次テ連隊命令ニ依リ下関ニ追撃シ同地ニテ敵敗残兵二千ヲ殲滅シ且ツ俘虜九百ヲ得
十四日南京城内ヲ掃蕩シ俘虜七百ヲ得第三大隊
十二月十日午前一時前衛トシテ下麒麟門ヲ出発セシ大隊ハ午前九時黄馬東側高地ニ達ス敵ハ紫金山一帯ニ陣地ヲ占領シアリ大隊(二中欠)ハ連隊ノ左第一線トシテ■高地ノ敵ヲ攻撃スベキ命ヲ受ケ直ニ攻撃前進午後四時■高地ヲ奪取シ次デ稜線上ヲ戦果ヲ拡張シ■高地末端ヲ奪取シ該地ニテ夜ヲ徹ス此夜第九中隊ヲ復帰セシメラル
十一日第一線ヲ孫総理陵南北ノ線ニ進出セシメ天文台高地方向ニ対シ攻撃準備ス
高地南斜面ハ敵追撃■集中射ヲ蒙リシ為攻撃意ノ如ク進捗セズ日没ニ至ル
十二日右第一線タル第九中隊「ベラベラ■」ノ高地ニ向ヒ突入シ爾後戦果ヲ拡張セントセシモ敵陣地■固ナリシ為戦闘意ノ如ク進捗セズ日没ニ至ル
十三日払暁敵退却セルヲ以テ直ニ追撃前進ニ移リ午前八時八時天文台高地ヲ占領ス大隊ハ連隊主力内ニアリテ下関ニ敵ヲ追撃シ該地ニテ宿営ス
十四日南京城内ノ掃蕩ニ任ジ敗残兵三百名処決セリ連隊砲中隊
連隊砲ハ十日ハ黄馬東側高地ヨリ十一日ハ記念塔附近ノ陣地ヨリ■■■■■附近ノ陣地ヨリ第一線大隊ニ最モ有効ニ協力シ得リ
第1大隊は、12月13日に敗走する中国兵を下関に追い詰め「敵敗残兵ヲ三千名殲滅」しています。
第2大隊も、12月13日に敗走する中国兵を追い下関にて敗残兵2000人を殲滅、900人の捕虜を得ています。翌14日には南京城内掃蕩で700人の捕虜を得ています。
第3大隊も、12月13日に下関までの追撃に加わり、翌14日の南京城内掃蕩で敗残兵300人を処決しています。
12月10日から12月14日までの敵死体数は3186(第2大隊分:2880、第3大隊分:306)と記録されています。
別の記録*1では、12月14日を除く12月10日から13日までの敵死体数は6839(12月10日:220、11日:370、12日:740、13日:5500(13日は処決した捕虜を含む))、捕虜3096(処断)とあります。
1937年12月13日
歩兵第33連隊の第1大隊は紅山、第2大隊と第3大隊は天文台高地にありましたが13日朝、正面の中国軍が敗走していくのに乗じて追撃を開始し下関に達します。下関に向かう過程で第1大隊は3000名、第2大隊は2000名を「殲滅」しています。この他に第2大隊が900名の捕虜を捕えています。
二つの史料と三つの数字
A「支那事変ニ於ケル歩兵第三十三連隊隷下部隊戦闘概況表」(12月10日〜14日)
B「戦闘詳報 第三号 付表 自昭和十二年十二月十日 至昭和十二年十二月十四日 歩兵第三十三連隊鹵獲表」
史料A(敵死体) | 史料A記述(13日) | 史料B(13日) | |
---|---|---|---|
第一大隊 | -- | 3000殲滅 | -- |
第二大隊 | 2880 | 2000殲滅900捕虜 | -- |
第三大隊 | 306 | -- | -- |
全体 | -- | -- | 5500(捕虜3096含む) |
12月13日の戦闘において、史料Aの記述からは第2大隊が2000人を殲滅900人の捕虜を捕えたことがわかります。史料Bからは捕虜3000人を含む5500人を殺害したこと、すなわち戦闘で殺害した中国兵は2500人程度であったことがわかります。13日の捕虜3000人うち第2大隊の捕虜が900人であるとすると、第1大隊の戦果3000人のうち2000人程度は一時は捕虜として捕えた可能性があります。第3大隊は下関追撃に加わったのが遅れており戦闘にはほとんど参加しなかったと見られます(史料A敵死体数より)。
すると推測できる実態としては以下のような感じになります。
12月13日 | 戦闘行為 | 捕虜殺害 |
---|---|---|
第一大隊 | 900 | 2100 |
第二大隊 | 2000 | 900 |
第三大隊 | -- | -- |
全体 | 2900 | 3000 |
第一大隊による捕虜殺害人数には第三大隊によるもの含まれる可能性があります。
また捕虜殺害を含めた全体数が5500人であることから、戦闘行為による殺害2900人はもうちょっと少ない可能性があります。
*1:戦闘詳報 第三号 付表 自昭和十二年十二月十日 至昭和十二年十二月十四日 歩兵第三十三連隊鹵獲表、http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20161115/1479225162