南京攻略直後の掃蕩における日本軍による中国軍捕虜虐殺の記録いくつか

独立攻城重砲兵第2大隊の戦闘詳報

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111857800、独立攻城重砲兵第2大隊 戦闘詳報 昭和12年12月3日〜12年12月15日(防衛省防衛研究所)」

(P228-230、pdf47-49/65)
連絡掛将校 冨山中尉ノ行動
(略)
敵ヲ殲滅スルニ決シ下車シ先ツ大平一等兵ヲシテ直チニ射撃セシメ自ラ凹地ヲ迂回シテ大平一等兵ノ射撃ニ依リ負傷セル敵三名ヲ斬殺セリ残余ノ敵ハ西方ニ潰走シ遂ニ姿ヲ没セリ時ニ午前八時二十五分ナリ
(略)
六 午前八時五十分冨山中尉ハ連絡班全員ヲ指揮シ砲兵隊長内山少将ニ状況報告ノタメ在工兵斈校砲兵隊戦闘司令所ニ向ヒ出発ス
途中仙鶴門鎮南方約一五〇〇米ノ本道附近ニ於テ敵兵五名ヲ捕獲シ連絡兵ト共ニ斬殺及銃殺セリ

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仙鶴門鎮附近第一中隊第一分隊及段列丸山小隊戦闘
(略)
十二 午前九時ニ至ルヤ仙鶴門鎮西方鉄門附近ニテ敵約五、六〇名ヲ発見シ騎兵ト協力ノ上直チニ捕獲射撃ス(略)

一つ目の「大平一等兵ノ射撃ニ依リ負傷セル敵三名ヲ斬殺セリ」は銃撃で負傷し撤退できなかった中国兵を斬殺したわけですが、まあ戦闘中と言えなくもありません。
二つ目の「本道附近ニ於テ敵兵五名ヲ捕獲シ連絡兵ト共ニ斬殺及銃殺セリ」は、捕獲した敵兵を斬殺・銃殺したわけですから、捕虜の虐殺にあたります。
三つ目の「直チニ捕獲射撃ス」は、好意的に解釈すれば戦闘行為として補足し射撃したともとれますが、捕獲して射撃したというのが自然な解釈でしょう。とすれば、これも捕虜の虐殺にあたりますね。

第6師団歩兵第47連隊第1大隊第2中隊

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111992900、歩兵第47連隊第2中隊 陣中日誌 昭和12年12月1日〜12年12月31日(防衛省防衛研究所)」

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 工作命139第一大隊命令 十二月十三日一二、三〇 於南門西北城壁上
一、連隊第一線北側市街ニハ大ナル敵ナキモノノ如ク百十四師団及第二十二連隊ハ市街ノ掃蕩ヲ開始シツツアリ
連隊ハ主力ヲ以テ一二〇〇城壁ノ線出発上劇「シカンセン」高地ニ亘ル市街ノ掃蕩ヲ実施ス
第三大隊ハ一二〇〇城壁ノ線出発「シカンセン」東南側市街ノ掃蕩ニ任ジ其一部ヲ以テ「シカンセン」高地ヲ占領ス
ニ、第一大隊ハ第三大隊ノ前進ヲ援護シタル後別紙要図ノ区域内市街ノ掃蕩ヲ実施セントス
三、第一、第二、第四中隊ハ別紙要図ノ区域内市街ノ掃蕩ヲ実施スベシ
四、爾余ノ諸隊ハ予備隊城壁上ノ現陣地ニ於テ掃蕩隊ノ援護ノ準備セラルベシ
五、余ハ暫ク予備隊ト共ニ現在地ニ在リ
  工長 緒方中佐
下達法各隊命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム
ニ、右命令ニ基キ一三〇〇ヨリ南京城南部区域ノ掃蕩ヲナシ敗残兵一五名ヲ刺殺シ一七〇〇終了城壁上ニ皈還ス

「敗残兵一五名ヲ刺殺」とあり、戦闘行為として殺害とは考えにくく“掃蕩中に捕えた中国兵を刺殺した”と解釈するのが妥当でしょう。

第16師団歩兵第30旅団歩兵第38連隊

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111938000、歩兵第38連隊 戦闘詳報 昭和12年12月14日(防衛省防衛研究所)」

(pdf2-4/17)
 歩兵第三十旅団命令 十二月十四日午前四時五十分 於 中央門外
一、敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意志ヲ有スルモノ散在ス
二、旅団ハ本十四日南京北部城内及城外ヲ徹底的ニ掃蕩セントス
(略)
四、歩兵第三十八連隊(第二大隊欠)ハ金川門(之ヲ含マズ)以東ノ城門ヲ守備シ歩兵第三十三連隊掃蕩地区以東ノ城内及和平門中央大学農林ヲ連ヌル線以西地区ヲ掃蕩シ支那兵ヲ撃滅スベシ
(略)
六、各隊ハ師団ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ
(略)
 支隊長 佐々木少将

この12月14日の掃蕩において歩兵第38連隊第1大隊は一人も捕虜を取っていません。第3大隊も別行動していた第10中隊が堯化門附近で白旗を掲げて降伏してきた7200名の捕虜をとった以外は一人の捕虜もとっていません。つまり12月14日の城内掃蕩では、ただの一人も捕虜をとっていないわけです。一方で同掃蕩において小銃弾2468発、機関銃弾500発、拳銃弾129発、手榴弾2発を消耗しています。掃蕩に参加した第38連隊の兵力は、将校31名下士官兵2333名でこのうち人的損害は下士官兵2名の負傷のみです。
別の資料では以下のようにも書いています。

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111208200、歩兵第38連隊行動概見表 昭和12年11月28日(防衛省防衛研究所)」

●良民ト便衣兵トノ区分困難ナリ
(略)
●小銃等外部ニ現ハル兵器ハ放棄スルモ拳銃ヲ有スルモノア
(略)
●平然トシテ降伏スルモノア
(略)

「俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」との命令下で行われた掃蕩において、市民と敗残兵の区別もできない状態で、せいぜい拳銃で武装している程度の敗残兵を相手に、しかも「平然トシテ降伏スルモノ」がいたにもかかわらず、3000発の銃弾を消費し一人の捕虜も発生しなかったわけです。
これが何を意味するのかは、あまりにも明らかでしょう。

第16師団歩兵第33連隊

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111198100、支那事変 戦闘詳報綴 昭和13年(防衛省防衛研究所)」

戦闘詳報 第三号 付表
自昭和十二年十二月十日 至昭和十二年十二月十四日 歩兵第三十三連隊鹵獲表
種類 俘虜(引用者:戦利品は略)

区分 将校 准士官下士官 馬匹
員数 14 3082 85

備考
一、俘虜ハ処断ス
ニ、兵器ハ集積セシモ運搬シ得ズ

三、敵ノ遺棄死体

  十二月十日 十一日 十二日 十三日 以上四日計
死体(概数) 220 370 740 5500 6830

備考 十二月十三日分ハ処決セシ敗残兵ヲ含ム

明確に“俘虜”として捕えた中国兵3000名以上を「処断」したと記録されています。
「処断」の意味が殺害であることは、次の「敵ノ遺棄死体」の統計表中に「十二月十三日分ハ処決セシ敗残兵ヲ含ム」として加算されていることからも明らかです。

考察

南京攻略戦に参加した兵力全体からすればごく一部の部隊の記録が公開参照できるに過ぎませんが、それでも数千人規模の捕虜虐殺や複数の数人規模の捕虜虐殺が記録されているわけですから“虐殺がなかった”とか言えるはずはないんですけどねぇ。