初年兵二等兵から大尉まで進級した住岡義一大尉の供述

1940年に二等兵として中国戦線に送られた住岡氏は、終戦間際の1945年8月に大尉に進級しています。捕虜を使った新兵の刺突訓練から始まり、略奪・強姦・虐殺と日中戦争における戦争犯罪の典型例が供述として述べられています。

(P6-8、13-14、16)
 一九四〇年一月中旬安徽省宣城県灣沚鎮第十五師団歩兵第六十連隊第二機関銃中隊初年兵教育隊(岩松部隊高品部隊中村隊)に於て陸軍二等兵として受訓中、私等初年兵は教官岩瀬道夫の命令により中隊の舎前三百米前方に在る凹地で新四軍と抗日軍の俘虜約十名を「教育材料」として刺殺した。私はその中新四軍工作員一名に対して銃剣を用いて心臓部へ二回刺突し殺害した。此の際初めての刺殺なので若し失敗し教官から講評され其後助教助手から叱かられては大変だとだけ考え無我夢中だった。其後又同僚の刺殺し損った抗日軍俘虜一名を助教袴田軍曹の指示に依り前回同様に刺殺した。約十名の刺殺を終えた後、屍体をあらかじめ其場に準備していた穴に埋めました。一九四〇年二月初旬朗渓作戦に参加、安徽省某県(宣城県東隣の県と推定)水陽鎮東南八粁の某村に於て行軍の小休止時、私と補充兵某は中村中隊長の命を受け民家から逃げ出した一名の老人に急いで追付き、先ず私がその背中を銃剣で突き刺し更に前に顛倒した老人の左背部を二回突いた。更に補充兵某が右背部一回刺突した時、老人は口から血を吹き出して絶命した。屍体は殺人の地点に放って置き老人の家四間に火を放ち牛一頭と鶏三羽を掠奪した。尚この作戦間に私は指揮班の集体掠奪に参加し農家より合計牛二頭と豚三頭を掠奪した(地名不詳)。
 一九四〇年四月中旬頃江南作戦に参加中、中隊は安徽省宣城県城東関の東北方五百米の独立した民家附近で戦闘を行った。私は小隊の最後尾として該民家で次の前進を待機中、前日古年次兵が放火した事を思い出し、戦闘でなくては放火出来ないと考えての藁葺の民家三間を放火し全焼させた。尚この作戦で私は小隊の集体掠奪に参加し、宣城県城附近、南陵県城附近、青陽県城附近等その他(地名不詳)に於て農家より合計牛二頭、豚三頭、鶏二十羽を掠奪した。
 一九四〇年五月下旬頃、一等兵弾薬手として宜昌作戦に参加中、湖北省京山県田村北西台地に於て中村中隊長より分隊は火葬用の薪を取る為田村に在る抗日軍兵舎を破壊するよう命令を受け、私は分隊長の支持に基いて分隊と共に一日目は、六棟(合計四十二間と推定)を破壊し木材を掠奪し又二日目は、七棟(合計四十二間と推定)に破壊の手数を避ける為放火し半焼の木材を用い屍体を火葬した。
(略)
(1942年(独立混成第4旅団所属))二月中旬太谷県新庄村で大隊主力が一日休養した時、私は部下四、五名に命じ翌日の道案内と八路軍の情報を蒐集の為新庄村の裏山の洞窟から村民四名(男二名婦人二名)を拉致して来た。此のうち二十二、三歳位の婦人に対して私の部屋で強姦し、他の二十七歳位の婦人は私の許可の下部下二、三名が輪姦し夫々釈放した。その後部下の部屋で二名の男を八路軍の情報調査の目的で麺棒とその他の棒を用い、私自ら頭部と腕或は着物を脱がせ背部を拷打し、その中一名の中年の男は回答しないので納屋で私自ら斬殺し屍体はその場で放棄した。他の一名は部下の部屋で監禁して道案内のため使用せんとしたが拷打の為歩けないので、翌日そのままにして出発した。
(略)
 一九四二年三月下旬中隊の兵が留置中の八路軍婦人工作員(二十五歳位)を強姦し又県警備隊の兵が輪姦した為、中隊長加藤修二はこれが大隊に知らさせない為、私に対して上記婦人と同じく拘留中の八路軍工作員二名と大孟鎮の商人一名計四名の殺害を命じた。私は大孟鎮東方約四百米の墓地に於てこの婦人を射殺し一名の工作員を斬殺し他の一名の大孟鎮の商人を部下に命じて斬殺させめた外他の一名の工作員も中隊附及部義麿に依頼し斬殺した。四名の屍体は附近の古井戸に投捨てた。
(略)

http://61.135.203.68/rbzf/img/14zg/03.htm


供述書は75ページあり全部テキスト化するわけもいかないため、上記以外の供述の要点は人民日報を参照してください。

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「大江回想録」の北坦村虐殺事件に関する記述

1942年5月27日の北坦村虐殺事件は、日本側では大戦果として誇らしげに記録されています。三光作戦の一つである冀中作戦において第110師団第163連隊が効果的に八路軍を殲滅したということで「北支の治安戦〈2〉 (戦史叢書)」や「歩兵第百六十三聯隊史」、「第四中隊史」に記載されています。しかし、日本軍が戦果を挙げるために北坦村で毒ガスを使ってことについては、記載していないか「発煙筒」と言い換えています。
戦史叢書が参考にした「大江回想録」には「毒瓦斯」と明記されており、「中国河北省における三光作戦―虐殺の村・北坦村」ではそのあたりについて詳しく書かれています。
「大江回想録」は防衛庁戦史研究所に収蔵されており、2001年には複写・撮影不可であったものの閲覧は可能でした。しかし、2003年からは閲覧すらも不可になったようです*1

中国河北省における三光作戦―虐殺の村・北坦村」に掲載されている筆写した記述は以下です。

P71
「2 定縣南方召村附近の川に添ふ地区特に安國縣境に添ふ地区は治安殊に悪く、民衆は日本軍に親しまず。再々附近を掃蕩せるも空室清野戦法にて敵の姿を見ずに終われり。3 斯くする内に南坦、北坦二両村に敵の大部隊あり。當部落には坑道を掘りある状況を知り、大隊は現駐屯地より夜間行動を起し特に道路を避けて行動し払暁同村を包囲攻撃せり。4 午前五時頃同村を完全に包囲し敵の銃声と共に射撃戦を開始し、漸次包囲圏を圧縮し部落に突入せり。然るに今迄猛烈射撃ありし敵の敵の姿全然なし。部落中にて屋根より手投弾を受け又入り口にて地雷の爆発を受く。直ちに部落外周の坑道を捜索せしめ又部落中の井戸其他坑を捜索せしめ毒瓦斯を投入せしむ。然る所漸く共産軍の騒く声聞きぬ。村より隣村に通ふずる坑道を遮断せしめ坑道内にて共匪の約百名を窒息殲滅せしめ、小銃軽機等約百二十丁鹵獲し、我方にも特曹以下数名の死傷ありたり。爾来定縣南方河川流域の治安急速に良好となれり。之かやかて縣政にも極めて良好結果を来たしたり。」

これは「北坦村虐殺事件に関連する冀中作戦についての上坂勝少将の供述」でテキスト化した上坂少将の供述書にある記述に一致する内容です。

大隊は此の戦門に於て赤筒及緑筒の毒瓦斯を使用し機関銃の掃射と相俟って八路軍戦士のみならず逃げ迷う住民をも射殺しました。又部落内を『掃蕩』し多数の住民が進入せる地下壕内に毒瓦斯赤筒、緑筒を投入して窒息せしめ或は苦痛のため飛び出す住民を射殺し刺殺し斬殺する等の残虐行為をいたしました。私は此の戦門に於て第一大隊をして八路軍戦士及住民を殺害すること約八百人に上り又多数の兵器や物資を掠奪させました。以上は第一大隊長大江少佐の報告に依るものであります。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20140801/1406848681

中国が現在公開している戦犯の供述書に対して反中バカな人たちは無根拠に洗脳だとかデタラメだとか決め付けますが、上坂少将の北坦村虐殺事件に関する記述は「大江回想録」と一致し、信憑性は極めて高いと言えます。
上坂少将の供述書は中国戦犯法廷で禁錮18年の判決を受けた1958年以前に作成されたもので、上坂少将が帰国したのは1963年です。
一方、「大江回想録」を大江芳若氏本人が書いたのは1958年で、日本にいました。
上坂供述書と大江回想録が書かれた1956〜1958年頃、大江氏と上坂氏は物理的に接点がなく、それぞれの記述は両人が独立に個々の体験を記載したものであることは確実です。

つまり、北坦村虐殺事件で日本軍が毒ガスを使用したこと、中国が現在公開している戦犯供述書にはそれなりの信憑性があることが言えるわけです。