「大江回想録」の北坦村虐殺事件に関する記述

1942年5月27日の北坦村虐殺事件は、日本側では大戦果として誇らしげに記録されています。三光作戦の一つである冀中作戦において第110師団第163連隊が効果的に八路軍を殲滅したということで「北支の治安戦〈2〉 (戦史叢書)」や「歩兵第百六十三聯隊史」、「第四中隊史」に記載されています。しかし、日本軍が戦果を挙げるために北坦村で毒ガスを使ってことについては、記載していないか「発煙筒」と言い換えています。
戦史叢書が参考にした「大江回想録」には「毒瓦斯」と明記されており、「中国河北省における三光作戦―虐殺の村・北坦村」ではそのあたりについて詳しく書かれています。
「大江回想録」は防衛庁戦史研究所に収蔵されており、2001年には複写・撮影不可であったものの閲覧は可能でした。しかし、2003年からは閲覧すらも不可になったようです*1

中国河北省における三光作戦―虐殺の村・北坦村」に掲載されている筆写した記述は以下です。

P71
「2 定縣南方召村附近の川に添ふ地区特に安國縣境に添ふ地区は治安殊に悪く、民衆は日本軍に親しまず。再々附近を掃蕩せるも空室清野戦法にて敵の姿を見ずに終われり。3 斯くする内に南坦、北坦二両村に敵の大部隊あり。當部落には坑道を掘りある状況を知り、大隊は現駐屯地より夜間行動を起し特に道路を避けて行動し払暁同村を包囲攻撃せり。4 午前五時頃同村を完全に包囲し敵の銃声と共に射撃戦を開始し、漸次包囲圏を圧縮し部落に突入せり。然るに今迄猛烈射撃ありし敵の敵の姿全然なし。部落中にて屋根より手投弾を受け又入り口にて地雷の爆発を受く。直ちに部落外周の坑道を捜索せしめ又部落中の井戸其他坑を捜索せしめ毒瓦斯を投入せしむ。然る所漸く共産軍の騒く声聞きぬ。村より隣村に通ふずる坑道を遮断せしめ坑道内にて共匪の約百名を窒息殲滅せしめ、小銃軽機等約百二十丁鹵獲し、我方にも特曹以下数名の死傷ありたり。爾来定縣南方河川流域の治安急速に良好となれり。之かやかて縣政にも極めて良好結果を来たしたり。」

これは「北坦村虐殺事件に関連する冀中作戦についての上坂勝少将の供述」でテキスト化した上坂少将の供述書にある記述に一致する内容です。

大隊は此の戦門に於て赤筒及緑筒の毒瓦斯を使用し機関銃の掃射と相俟って八路軍戦士のみならず逃げ迷う住民をも射殺しました。又部落内を『掃蕩』し多数の住民が進入せる地下壕内に毒瓦斯赤筒、緑筒を投入して窒息せしめ或は苦痛のため飛び出す住民を射殺し刺殺し斬殺する等の残虐行為をいたしました。私は此の戦門に於て第一大隊をして八路軍戦士及住民を殺害すること約八百人に上り又多数の兵器や物資を掠奪させました。以上は第一大隊長大江少佐の報告に依るものであります。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20140801/1406848681

中国が現在公開している戦犯の供述書に対して反中バカな人たちは無根拠に洗脳だとかデタラメだとか決め付けますが、上坂少将の北坦村虐殺事件に関する記述は「大江回想録」と一致し、信憑性は極めて高いと言えます。
上坂少将の供述書は中国戦犯法廷で禁錮18年の判決を受けた1958年以前に作成されたもので、上坂少将が帰国したのは1963年です。
一方、「大江回想録」を大江芳若氏本人が書いたのは1958年で、日本にいました。
上坂供述書と大江回想録が書かれた1956〜1958年頃、大江氏と上坂氏は物理的に接点がなく、それぞれの記述は両人が独立に個々の体験を記載したものであることは確実です。

つまり、北坦村虐殺事件で日本軍が毒ガスを使用したこと、中国が現在公開している戦犯供述書にはそれなりの信憑性があることが言えるわけです。