笠原氏を史実派、東中野氏を否定派とするなら、犠牲者数を過小評価しているいわゆる「小虐殺派」は値切り派と呼ぶべきかなと。
まずは、元防衛大学校教授の河野収氏の根拠。
三万にせよ四万にせよ現在段階では確認できる数字ではないが、少なくとも当時の南京防衛軍の兵力と南京の推定人口から見ても六桁ということは考えられない。
「近代日本戦争史第三編 第五節 南京攻略戦とトラウトマン工作」P320
明示していないものの、犠牲者六桁、つまり10万人以上は考えられないとしている以上、河野氏は当時の南京の推定人口を国際安全区人口程度を決め付けていることがわかります。
ちなみに、以前も述べたとおり、事件当時の南京人口は南京城区で40〜50万人、南京近郊で120〜135万人、南京事件の起きた範囲内合計で160〜185万人程度です。
次に軍事史学会副会長の原剛氏の根拠。
大虐殺説は、後で検証するように、当時の南京の人口や中国軍の兵力から考え、あり得ないことであり、(略)
「日中戦争再論 いわゆる「南京事件」の不法殺害」P145
ここは河野氏と同様の記載ですが、後で詳述しています。
南京の人口は、戦前は約一〇〇万人であったが、戦闘が近づくにつれて、避難する住民が増え、南京戦当時は大幅に減少して一五万〜三〇万であったという諸説がある。安全区委員長のラーベは、約二〇万人と日記に記している。
「日中戦争再論 いわゆる「南京事件」の不法殺害」P145
つまり人口20万人説の根拠はラーベ日記の1937年12月10日の記述に過ぎません。この時期、安全区に続々と難民が集まってきつつある状況で、正確な人数などは知るよしもなく、基本的には統計資料でもなんでもないラーベの概算に過ぎない上、南京城区以外の人口については全く考慮していない数字です。
数字として曖昧極まりないこの数字が、犠牲者30万人説(20万人説も含めて)を否定する根拠になっています。
つまり、元防衛大学校教授や軍事史学会副会長の犠牲者30万人説否定論の根拠は、あの、東中野氏と同レベルだったということです*1。