状況を推論・分析する記述に対して、「 「ではどうすべきか?」という点を無視している」という難癖こそが「ためにする批判」

以下は概ね同意できる推論です。

こうして伝えられる「事実の断片」から推論できるのは次のことだ。

一、安倍内閣は湯川・後藤の両氏が囚われたことを知りながら、
  なんら有効な救出策を講じてこなかった。
  はっきり云えば官邸は人質に「無関心だった」。
一、そのことについては失敗だったと自覚している。
  少なくとも、国民感情の面で「まずかった」と認識している。
  だから、「11月に情報連絡室を設置した」などと糊塗に動いた。
一、ということは、
  政府の方針を貫徹するためには、
  ある程度の犠牲はやむを得ないと腹を括っていたわけではない。
  「確信犯」なら国民感情の反発は織り込み済みのはずだから。
一、つまり、ISを敵視する一連の発言は、
  発言に伴うリスクを充分に考慮したものではなかった。
  ISの脅迫ビデオ公開は政府にとって「想定外」の事態だった。
一、想定外の事態に慌てて有効な対策をとれぬまま、
  時間切れで最悪の事態を迎えた。

こうやって整理してみると、とんでもなく情けない気分になる。
以上の推論から透けて見える問題点は次の三点である。

一、日本政府においては
  情報の収集と分析能力(インテリジェンス)が機能していない。
一、従って危機管理能力に欠ける。
一、安倍首相は官僚機構にとってコントロール不能な存在である。

http://toriiyoshiki.blogspot.jp/2015/02/blog-post_4.html

この記述は、湯川・後藤両氏の人質殺害事件に対して、2014年10月頃以降の安部政権の公表されていない部分の動きを、公表されている部分から推論・分析している内容です。理想的には、もっと情報を収集して政府から独立した第三者が検証するのがいいわけですが、そういう動きが望み薄である現状ではこのレベルの推論でも十分意義があると思います。

ためにする批判

例の自称保守。

the_sun_also_rises 「ではどうすべきか?」という点を無視しているのでためにする批判に終わっている。最初要求されたという20億の身代金を払うべきだったと言うのか?また将来情報収集能力を向上させるためにどうすべきと言うのか? 2015/02/05

http://b.hatena.ne.jp/entry/toriiyoshiki.blogspot.com/2015/02/blog-post_4.html

明らかになっていない状況を明らかになっている情報から推論することは、それだけでも意味があり、それを普通「ためにする批判」などとは言いません。実際、2014年10月から現在(2015年2月)までの安部政権の人質事件に対する対応などは明らかになってないことが多く、かつそれは国民の関心の高い情報です。
推論そのものが否定しにくく説得力のあるものであるならば、それだけで意味のある内容と言えます。
さらに、自称保守は「「ではどうすべきか?」という点を無視している」と言っていますが、最後に上げている3つの問題点はまさに「ではどうすべきか?」に答えるものです。

「将来情報収集能力を向上させるためにどうすべきと言うのか?」などとこの記事に要求すること自体おかしな話です。
この自称保守は“北朝鮮による拉致問題を解決させなければならない”という意見に対して解決「させるためにどうすべきと言うのか?」と一度でも聞いたことがあるのでしょうか?