日本社会は1990年代まで慰安婦問題をどのように捉えてきたか

Apeman氏が捏造された「朝日新聞の捏造」?で取り上げているように、日本において一般に慰安婦問題が問題として知られるようになったのは、1991年の金学順氏による日本政府提訴からと言えるでしょう。
(Apeman氏のエントリから作成)

年代 慰安婦」に言及した記事数 出来事
〜1983年 - 1983年 吉田清治「私の戦争犯罪」刊行
1984年〜1989年 35件  
1990年 23件  
1991年 150件 12月 金学順氏による日本政府提訴
1992年 724件 7月 加藤談話
1993年 424件 8月 河野談話
1994年 373件 8月 村山談話
1995年 494件  
1996年 577件 8月 橋本首相によるお詫び
1997年 757件  
1998年 393件  
1999年 194件  
2000年 235件  
2001年 233件  
2002年 149件  
2003年 92件  
2004年 104件  
2005年 193件  
2006年 110件  
2007年 423件 安倍首相歴史修正未遂事件
2008年 122件  
2009年 73件  
2010年 59件  
2011年*1 85件  

では、それまで日本社会ではどのように従軍慰安婦を捉えていたか。大雑把ながら終戦から1990年代までの動きをまとめてみました。

戦後〜1960年代

従軍慰安婦問題否定論者(買春主義者)の主張には、「慰安婦問題は1980年代に吉田清治証言と朝日新聞により捏造された」という陰謀論がありますが、実際には1948年時点で国会で、元慰安婦が生活困窮のため、戦後になっても売春を続けざるを得ない状況が述べられていますし、その後も戦没者遺族援護法の適用範囲に慰安婦は含まれるかなどで国会で何度か議論されています(例えば、1962年4月11日衆議院社会労働委員会 など)。

○後藤委員 (略)当時大臣も兵隊に行っておられて、慰安婦等の数なりその他につきましては、千名や二千名ではなかろうと思います。おそらく数千名の慰安婦が第一線なりその他多くの戦場に派遣されておった、これはもう間違いないと思うのです。(略)

戦後の1940年代後半から1950年代は、従軍慰安婦問題以前に日本国内に溢れる30万人以上の売春婦の問題が喫緊の課題でした。性道徳上の問題・性病の問題と売春せざるを得ない貧困問題がせめぎあい、売春防止法制定に向けた動きが続いていました。売春婦の更正や生活支援などの措置を取ることを決めつつ、漸く売春防止法が施行されたのは1958年になってからです。
戦時中の慰安婦に対して目が向けられるのは1960年代に入ってからで、戦没者遺族援護法が慰安婦に適用されるかという議論となりました。これらは社会党議員が主体となって元慰安婦が救済されるように政府に働きかけています。従軍慰安婦の存在は認識されていながら、問題とされたのは戦時性暴力ではなく、戦後に復員軍人や遺族同様の救済がされていないという問題意識で捉えられていたのです。

1970年代

1970年代になると、ようやく日本人慰安婦以外の元慰安婦にも目が向けられます。大きなきっかけとなったのは1973年に刊行された千田夏光氏の「従軍慰安婦」です。買春主義者は千田氏に対しても悪口雑言を投げますが、実際には千田氏の「従軍慰安婦」には日本人慰安婦の記述が多く、日本軍と運命を共にした悲恋的な話もあり従軍慰安婦の悲劇を伝えようとする書ではあっても戦争犯罪の告発といったトーンは少ないと言えます。
これは映画化もされて、「従軍慰安婦」という言葉で一般に知られるようになったきっかけではありましたが、あくまでも”戦争に巻き込まれた女性の悲劇”と言った感傷的な内容に過ぎなかったと言えます。

朝鮮人慰安婦に対する戦時性暴力と言った告発は、千田氏の「従軍慰安婦」よりむしろ同じ1973年に起きた事件がひとつのきっかけになっていると言えます。

国士舘大学学生による朝鮮学校生徒襲撃事件(1973年6月12日)

昭和48年(1973).6.11〔国士舘生が朝鮮学校生襲うなど大暴れ〕
 東京都新宿区の新宿駅ホームで、ラッシュ時の人混みの中、国士舘高校生20人と朝鮮中高級学校生20人が乱闘となり、喫茶店のガラスが割られ、突き飛ばされた老女(70)が階段から転げ落ちて2週間のケガを負った。
 翌12日、高田馬場駅国士舘大学生20人が「朝鮮人をぶっ殺してやる」と朝鮮中高級学校生を木刀で襲い、電車のガラスを割って3人逮捕。
 5.12に国士舘大学生2人が和光高校生数人を襲い重傷を負わせ、5.22に国士舘高校1年生(15)が他校生に暴行を加えて木につかまってミンミンゼミのマネをさせ、6.2には国士舘大学1年生2人(18,19)が小田急線電車内で東京芸大講師(32)にからんで重傷を負わせ、6.5には国士館大学1年生3人が小田急線電車内の吊革14本をナイフで切断して逮捕されるなど事件が続いており、国士舘の右翼的教育方針に原因があるのではないかと国会でも取り上げられ大問題となった。

http://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/archives/50108212.html

右翼学生による朝鮮人差別問題が生じたのは、当時の政治状況における左右の対立が背景にあります。当時、日本は西側世界の一員としてアメリカ側についていましたが、国内的には中立を標榜する左派と、反共を主張する右派に分かれ対立しており、東西冷戦の中にあって、中立と西側の間にいるような奇妙な立ち位置をとっていました*2。この日本国内における中立と反共の対立は、朝鮮半島における韓国軍事政権と金日成北朝鮮とも複雑に絡んでいました。

こういった背景の下、国士舘朝鮮学校事件に絡んで社会党の赤松勇議員が発言したのが以下の内容です。

○赤松委員 実はこの国士舘大学の問題は単なる刑事問題ではなくて、これは言うまでもなく善隣友好の立場から言えば重要な政治問題であります。
(略)
 まず第一にお尋ねしたいのは、例の関東大震災の際に六千人にのぼる朝鮮人が一部の扇動者の手によってたいへんな迫害を受けて、中には虐殺された者もあります。これはあなたも十分御承知のところです。それからいま日弁連を中心に戦前の朝鮮人虐待の実態を調査するために日本弁護士連合会人権擁護委員長の尾崎弁護士を団長として総勢二十人の調査団が北海道を調査しております。
 この調査の過程で次第に明らかになったのが、朝鮮におきまして通りがかりの子供を拉致して、そしてこれを北海道に持っていって強制労働をやらせておったという事実、さらに朝鮮の婦女子を二百人拉致して、そうして北海道に連れてまいりまして、強制的に慰安婦、つまり売春婦として遊郭の一角に閉じ込めて、そしてこれを虐待しておったというような事実、数えあげれば、ここに資料がたくさんございますけれども、やがて私はこの法務委員会におきましてこの事実を明らかにしまして、そして今後の対朝鮮外交政策の一つの資料にしたいと思っておるのでありますが、これらの戦前の、民主主義の観点からいえば人権じゅうりん、外交的に言えばこれは侵略行為です。こういうことについて国務大臣田中伊三次としてどのようにお考えになっておるか、この際あなたの政治的見解をお尋ねしたい。

戦時中の従軍慰安婦ではなく、戦前の朝鮮人虐待のひとつとしての強制売春の事例が挙げられました。戦時中の戦時性暴力の事例ではありませんが、この頃から売春を強要されることが性暴力であるという認識での訴えが出てきます。これには1970年代の女性差別撤廃条約などへの批准を求めた婦人団体の活動の影響も大きいでしょう。女性の権利がようやく認められ発言権を得るにつれて、戦時性暴力としての慰安婦問題が表面化してくることになります。
さらには沖縄復帰問題などに絡む差別問題なども影響してきますが、そういった中で佐木隆三が1972年に「娼婦たちの天皇陛下」というエッセイを発表するなど、徐々に従軍慰安婦の性暴力被害者としての側面が洗い出されるようになってきます。

とは言え、1970年代、特に前半における従軍慰安婦問題の捉え方は、朝鮮人差別、沖縄人差別、部落差別といった差別問題のひとつとして捉えられていたように思えます。

1970年代後半〜1980年代

1970年代には、従軍慰安婦と並ぶ戦争犯罪の事例として南京大虐殺がクローズアップされています。1972年に刊行された本田勝一氏の「中国への旅」は日中国交正常化のタイミングの日本軍の過去の戦争犯罪に向き合う内容でしたが、取り立てて南京大虐殺を誇張しようという意図は見受けられません。タイトルを見ても「中国への旅」といった穏やかな文言*3ですし、南京大虐殺に関連する記述も半分程度だったはずです*4
南京事件南京大虐殺*5は、この頃までに歴史的事実として学問的に定着していましたが、一般には関心の薄い過去の事件にすぎず、できれば触れたくないと思う人も多くいました*6日中国交正常化を機に過去に向き合おうという動きから、改めて南京事件について書かれた「中国への旅」が広く注目され、その結果、関心の薄いままにしておきたかった人たちが反論をはじめ、1970年代後半にはそれが全面的な南京事件否定論にまで先鋭化していきました。

従軍慰安婦問題が戦時性暴力問題として認識が広まっていったのには、同時期に起きていた戦争美化の南京事件否定派と、戦争犯罪に向き合う史実派の論争の影響があるように思えます。この他にも、女性差別問題や民族差別問題があり、ベトナム反戦運動在日米軍による買春や事件などの影響も否定できません。
ともあれ、1970年代後半から1980年代にかけて従軍慰安婦問題は、戦時性暴力問題であるという認識が育ち、当事を知っている者には常識であったものの誰も名乗り出てこなかった加害者としての証言が、1983年に出てきました。
これは吉田清治「証言」です。「私の戦争犯罪」に書かれた内容は朝鮮半島で女性を慰安婦として強制連行した事例でしたが、吉田氏は「時と場所が異なる事件を、出版社の要請に応じて一つにまとめた」*7ため、否定派により格好の攻撃の的とされました。「「時と場所」という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない」にしても、吉田氏の記述した事件の存在そのものが嘘だとは言えませんが、否定派は「全て捏造」と決め付けたプロパガンダを行いました。

1980年代後半になると、日本の反共右派と共闘していた韓国軍事政権が倒れ、日本の戦争犯罪に対する糾弾の声が上がるようになり、従軍慰安婦問題に関する民間レベルの研究も積み重ねられ、日本軍による組織的な管理売春の実態が暴かれてきました。
日本政府は、従軍慰安婦は民間が勝手にやったことで日本軍や政府は関与していない、と否定し続けましたが、1991年末韓国人の元慰安婦による日本政府提訴と1992年1月の軍関与の証拠発見報道によって追い込まれ謝罪するに至ったわけです。

まとめ

まとめると、従軍慰安婦問題に関する認識は、1950年代までは国内に溢れた売春婦の更正問題の一部であり、1960年代は恩給対象かどうかの問題に過ぎませんでした。1970年代に入ってようやく戦時性暴力の問題としての認識がなされ、20年かけて研究された1990年代に日本政府に責任を認めさせるに至ったわけです。


否定派は否定することだけが目的ですから、ある日突然、慰安婦問題が捏造された程度の浅い理解しかしていませんが、実際には日本社会がどのように問題として捉えたかの変遷があり、それに応じて、あるいは先んじて研究が地道に進められていったわけです。

従軍慰安婦問題は、民間の研究結果が国を動かした事例であり、日本の歴史研究の独立性と真摯さを誇るべき事例なんですけどね。

*1:〜12月21日

*2:一貫して政権をとっていた自民党が反共の立場なので、西側だったようにも思えますが、自民政権は日米交渉を有利に行うために完全に西側に偏ることを巧みに避けています。

*3:「〜の捏造!」などと煽り目的の否定派の書籍と違って。

*4:今手元にないのでわかりませんが、前評判を聞いた後に読んで、この程度の内容で否定派は騒いでいるの?と感じた記憶はあります

*5:虐殺以外に略奪・暴行・強姦など様々な形態の被害を起こしたため、総称として南京事件と呼ぶ

*6:例えば、伊藤正徳などは「軍閥興亡史」で通州事件を記載しても南京事件を記載しないという態度をとっています

*7:http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/uesugi01.htm