上海事変と従軍慰安婦

上海事変が激戦中の1937年9月29日、野戦酒保規定が改定され、日本軍後方施設として「慰安施設」の設置が可能になりました。

第一条 野戦酒保ハ戦地又ハ事変地ニ於テ軍人、軍属其ノ他特ニ従軍ヲ許サレタル者ニ必要ナル日用品、飲食物等ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス
 野戦酒保ニ於テハ前項ノ外必要アル慰安施設ヲナスコトヲ得

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959709/10

ここには「慰安施設」としか書かれておらず、必ずしも軍用売春宿を指すとは言えませんが、この指示を受けた現地軍はそう解釈しました。上海占領後南京占領直前の1937年12月11日、中支那方面軍を通じて書類を受け取った飯沼守上海派遣軍参謀長は、「慰安施設」=「女郎屋」を理解し、12月19日に長勇に女郎屋設置を命じています。
また、野戦酒保規定改正と同じ1937年秋には関西の売春業者が、予備役陸軍大将であった荒木貞夫や右翼の頭山満らと会合し内地から上海に年内に3000人の娼婦を送る計画を立てています。
これらの事実は、日本軍が当初から「慰安施設」=「軍用売春宿」とみなして準備していたことを意味すると言っていいでしょう。そして軍の資金で商売ができると見込んだ売春業者、軍用売春婦の確保を望んだ軍当局、軍と裏社会の双方に顔の利く右翼の三者連携の下、内地から戦地への売春婦移送計画が動き始めます。
しかし1937年9月から12月までに大きく動いた戦況とは裏腹に、軍用売春婦の募集・移送は遅々として進みませんでした。少数であれば業者の言いなりになる女性や一攫千金を求める女性もいたでしょうが、3000人も集めるとなればそう簡単にはいかず、軍の依頼を受けた売春業者は同業者に声をかけ、全国あちこちに飛び回り売春婦を集めざるを得ませんでした。そして、奔走する売春業者は警察の網に引っかかることになります。
1930年代当時、公娼制度に対する批判が高まり県単位で公娼廃止決議も多く出され、1934年には内務省が将来公娼制度を廃止する方針であることを表明しています*1。さらに1937年8月には外務次官から警察に対し「不良分子ノ渡支ニ関スル件」が通知されています。このような状況下で、売春業者が売春婦集めにあちこち飛び回っていれば警察として見過ごすわけにはいきませんでした。
和歌山では売春業者が検挙され、群馬、茨城、山形では売春業者の募集活動が警察に睨まれます。売春業者らは警察に対してあるいは募集にあたって軍部了解の仕事であると主張し、警察としては「皇軍の威信を失墜させる」言動と考えました。しかし、間もなく売春業者の主張が事実であることがわかります。現地軍から警察上層部にあてて売春業者に便宜をはかるよう依頼が来ていたからです。
ゴーストップ事件から4年経ち、しかも日中戦争開戦に国内が熱狂している時期、警察は軍側に折れて売春業者に便宜を図る方針を採りました。1938年2月23日、内務省は「支那渡航婦女の取扱に関する件」を地方長官宛に出し、売春婦の国外移送を黙認することになります。
なお内務省通牒以前に売春業者に連行された慰安婦らは上海の慰安所に入れられており、上海方面の警備を担当した第101師団第101連隊所属兵士の陣中日記に1938年1月8日頃に慰安所設置された記録が残っています*2

1937年暮れから慰安婦を集めてまわった売春業者については、千田氏「従軍慰安婦」にも記述があり、北九州から慰安婦を集めたとあります(P24-33)。日本人慰安婦は娼妓経験者から集めたものの、それでは足りず娼妓ではない処女の朝鮮人女性をも連行し上海楊家宅に慰安所を設けました。検診を担当した麻生徹男軍医によれば、この時期の朝鮮人女性は1〜2割程度だったと言います。

改正野戦酒保規定や警察史料に基づく連行過程に関しては「2015年2月25日(水)「資料から読み解く慰安婦問題」(探究モード)」で林教授が詳しく説明しています。