秦・大沼歴史修正コンビによる性暴力被害者侮辱会見での8項目の指摘に対する反論4(追記2015/3/22)

続き。

「4.慰安婦天皇からの贈り物」

4.慰安婦天皇からの贈り物
→根拠がなく、あまりに非礼

http://www.sankei.com/life/photos/150317/lif1503170028-p1.html

慰安所は1937年9月29日の改定野戦酒保規定を根拠として設置されました*1。つまり、慰安施設は法的根拠の伴う軍の後方施設であり、そこに配置された慰安婦は、日本兵にとって下賜される煙草や酒と同じく下賜品という認識を持ったのは別に不思議なことではありません。
その意味で言えば、まさに「慰安婦天皇からの贈り物」であって、何も問題のある記載ではありません。
「あまりに非礼」というのは、それこそ現代の価値観で過去を評価するようなもので、否認論者による言いがかりでしかありません。

ちなみに慰安婦を“天皇からの下賜品”だとみなす指摘は、1991年から尹貞玉氏らによってなされています。

朝鮮人従軍慰安婦を考える会(手紙 女たちの太平洋戦争)

1991年8月12日朝刊
 韓国挺身隊問題対策協議会の尹貞玉代表も次のようなメッセージを寄せている。尹さんは梨花女子大の前教授。以前から 慰安婦問題に関心を持ち、各地で取材し、資料を集め、研究してきた。
 「戦時中、日本は朝鮮に強制徴用、強制徴兵制を実施し、『天皇』の『赤子』である『皇軍』にささげる『下賜品』 として従軍慰安婦を戦場に送った。しかし、実際のところ、慰安婦は品物以下の『共同便所』扱いだった。彼女たちは、 敗戦と同時に捨てられたり、米軍の空襲を口実に塹壕や洞穴の中で集団爆殺されたりした。生き残ったものは、私の知りうる 限り、今日まで肉体的な病気と心理的な病に苦しんでいる。彼女たちは他人を避け、極度に閉じこもった生活をしている。 自分たちが従軍慰安婦だったという事実が、家族や近所の恥になると思っているからだ。日本政府は賠償はおろか、戦後 46年が過ぎた現在も従軍慰安婦の事実を認めようとさえしない。それは、生命と愛の絡んだ性を蹂躙した犯罪である」

http://kyoakubokumetsu.web.fc2.com/ianfu-2-t.html
知ってほしい慰安婦(手紙 女たちの太平洋戦争・韓国)

1991年9月12日朝刊
 8月24日夜、大阪・森ノ宮ピロティ小ホールで開かれた「『朝鮮人従軍慰安婦問題』を考える集い」には在日・朝鮮人の女性をはじめ、 男性、日本人らが参加した。その数約300人で、会場に入りきれないぐらい。従軍慰安婦問題に対する関心の高まりがみえた。
 尹貞玉さんの講演をはさんで十余人の参加者が同問題などについて自分の考えを発表、最期に「8・24アピール」を採択した。
 大きな拍手に迎えられて登壇した尹さんはよくとおる声で話し始めた。日本語だ。メモをとる参加者が多い。
 「慰安婦たちは『モノ』扱いだった。天皇の『下賜品』でした。『突撃一番』というコンドームをつけない軍人もいた。梅毒にかかり 精神が錯乱した女性もいた。目が見えなくなっても軍人の相手をさせられた人もあったのです」

http://kyoakubokumetsu.web.fc2.com/ianfu-4-t.html

むしろ、秦氏や大沼氏によるこの会見こそが戦時性暴力被害者に対して「あまりに非礼」だと言っていいでしょうね。

追記(2015/3/22)

id:Apemanさんからコメント欄で教示いただいたものです。
麻生軍医が1939年6月に作成した報告書「花柳病ノ積極的予防法 第十一軍第十四兵站病院」に慰安婦を「皇軍将兵ヘノ贈リ物」とする記述がありました。

従軍慰安婦―“声なき女”八万人の告発 (1973年)」P39
(略)サレバ戦地ヘ送リ込マレル娼婦ハ年若キ者ヲ必要トス。而シテ小官、某地ニテ検黴中屡々見シ如キ両鼠径部ニ横根手術の瘢痕ヲ有シ明ラカニ既往花柳ノ烙印ヲオサレシ、アバズレ女ノ類ハ敢ヘテ一考ヲ与ヘタシ。此レ皇軍将兵ヘノ贈リ物トシテ、実ニ如何ハシキ物ナレバナリ。如何ニ検黴ヲ行フトハ言ヘ。

売春経験者で性病の既往のある女性をいくら性病検査をするとは言え「皇軍将兵ヘノ贈リ物」として慰安婦にして送り込むのはいかがなものか、という麻生軍医の指摘です。この思考が、未経験者を騙して慰安所に送り込む行為を誘発させたわけで、結果的にそのように未婚の素人女性を騙して慰安婦にすることが可能だった朝鮮半島で多発したのは良く知られていることですが、それはそれとして、ここでは1939年時点で、慰安婦の管理にかかわった陸軍軍医少尉が、慰安婦を「皇軍将兵ヘノ贈リ物」と見ていた点を指摘しておきます。