秦・大沼歴史修正コンビによる性暴力被害者侮辱会見での8項目の指摘に対する反論5

続き。

「5.出身「大半は朝鮮および中国」」

5.出身「大半は朝鮮および中国」
秦氏の推計では最多は日本人

http://www.sankei.com/life/photos/150317/lif1503170028-p1.html

慰安婦の出身地については総括的な統計資料が存在しませんので、断片的な各資料から推測せざるを得ないのが実状です。ですが、アメリカの教科書に書かれたという「大半は朝鮮および中国」が間違いだなどと主張できる根拠もなく、かつどの史料を見ても朝鮮人慰安婦や中国人慰安婦がかなりの比率を占めていることがわかります。

秦氏の推計」自体、どの程度信頼できるのかと、秦氏の研究者としての信頼性からして疑わしいのですが、まあ例えば、アジア女性基金のサイトで掲載されている以下の資料は、日本人慰安婦も少なくない構成比を占めていたことを示してはいます。

昭和13年11月から14年12月まで台湾各州を経由して中国へ赴いた軍慰安所関係者の民族別構成
    内地人 朝鮮人 本島人
台北州 649 207 229
新竹州 65 86 11
台中州 3 143 27
高雄州 218 53 117
台南州 3 72 0
計    938(49.8%) 561(29.8%)*1 384(20.4%)
http://www.awf.or.jp/1/facts-07.html

この史料では5割が日本人、3割が朝鮮人、2割が台湾人となっています。この史料だけに依拠するなら「最多は日本人」と言うのは間違いではありませんが、一方で「大半は朝鮮および中国」というのも間違いではありません。朝鮮人と台湾人で過半数を占めているわけですから。*2
ちなみに、この史料は1938年11月から1939年12月までの台湾から中国へ連行された慰安婦の民族構成を示していますから、本来ならその背景情報を考慮に入れる必要があります。藤永壯氏は、この期間の台湾からの慰安婦移動について以下のように考察しています。

 第二一軍の作戦行動がつくり出した「慰安婦」の需要は、多数の朝鮮人女性を中国大陸に渡航させることになった。一九三八年一一月から四〇年一月にかけて、台湾から華南方面に渡った朝鮮人慰安所関係者は六〇七名であり(表14)、これは一九三九年に台湾に在住していた朝鮮人接客婦四四五名(表2)を、一五〇名以上も上回っている。もちろん渡航した慰安所関係者が、すべて「慰安婦」であったわけではないが、控えめに見ても当時台湾にいた朝鮮人接客婦の総数に匹敵する規模で、朝鮮人慰安婦」の流れが生じたことは間違いないだろう。

http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/taiwan/taiwan3.htm#chap3

つまり、朝鮮人慰安婦は台湾を経由地として連行されており、植民地台湾に宗主国人として住んでいた日本人よりも移動の手間がかかっているわけです。これを考慮すると、この史料は日本人慰安婦や台湾人慰安婦の割合を高く見せる傾向にあり、朝鮮人慰安婦の割合を少なく見せる傾向にあると判断すべきでしょう。

個別の史料では、麻生徹男軍医による報告書で麻生氏自身が1938年1月に上海で性病検査した慰安婦約100名のうち、80人が朝鮮人、20人が日本人であったとする史料*3があります。太平洋戦争開戦後の南方占領地での慰安所では、多くの資料で朝鮮人慰安婦の方が日本人慰安婦よりも多かったと書かれており、戦争全期を通じて慰安婦の民族構成の多くが朝鮮人で占められていたことを示唆しています。

*1:元サイトは(40.1%)とあるが、誤記と思われるので修正した。

*2:http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/taiwan/taiwan_table14.htm にも藤永壯氏による同様の統計がありますが、期間や取扱に若干の違いがあり、数値は異なっています。ただし、概ね5割が日本人、3割が朝鮮人、2割が台湾人という比率はほぼ同じです。

*3:千田夏光従軍慰安婦」P38