米国国立公文書館・国立国会図書館所蔵資料
I.連合軍翻訳通訳部局(ATIS)関係文書
(P105/294)
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdf
文書件名 日付 対象地 内容 記述の概要 1.尋問調書(Interrogation Report)No.24 1942.12.31 ラバウル 日本人捕虜の供述 ラバウルで、日本人と朝鮮人双方の慰安婦を見たことがある。 2.尋問調書 No.25 1943.1.10 ラバウル 日本人捕虜の供述 ラバウルで、日本人と朝鮮人双方の慰安所があり、朝鮮人と日本人を合わせて約100人くらいの女性がいた。 3.尋問調書 No.27 1943.1.28 ラバウル 日本人捕虜の供述 ラバウルには、日本人女性と朝鮮人女性のいる慰安所があった。 4.尋問調書 No.28 1943.1.30 マニラ 日本人捕虜の供述 慰安所の女性は検診を受けているので、軍人で罹病する者はそう多くない。慰安所は軍に管理されており、主要都市には大抵ある。自分はマニラの慰安所へ行った。朝鮮人、フィリピン人、中国人の女性10名がいる慰安所が五、六軒あった。 5.尋問調書 No.30 1943.2.2 ベラーワン(インドネシア・スマトラ島) 日本人捕虜の供述 ベラーワン(Belawan)には陸軍公認の慰安所が一軒あり、現地女性二名と六名の中国人女性が働いていた。性病に対しては厳重な予防策がとられていた。 6.尋問調書 No.31 1943.2.1 ダヴァオ 日本人捕虜の供述 慰安所は軍の内部に設置された。ダヴァオの慰安所には、朝鮮人、台湾人及び現地人の慰安婦がいた。 7.尋問調書 No.34 1943.2.23 上海 日本人捕虜の供述 上海においては、朝鮮人慰安婦のいる軍公認の慰安所があった。近くミンダナオに一軒慰安所が設置されるという噂を耳にしたことがある。 8.尋問調書 No.37 1943.2.23 - 日本人捕虜の供述 部隊が退去して駐屯していた場所には、陸軍と海軍の双方によって直ちに慰安所が設けられた。通常、朝鮮人と中国人の女性が雇われたが、時折現地女性も加えられた。営業利益は当該軍隊(Services)に入った。 9.尋問調書 No.46 1943.4.1 マニラ、ダヴァオ 日本人捕虜の供述 マニラとダヴァオに慰安所があり、朝鮮人女性がいた。これらの慰安所は陸軍によって公認されていたが、営業利益は経営者に入っていたと思う。 10.尋問調書 No.48 1943.4.7 - 日本人捕虜の供述 慰安所は陸軍内に設置され、そこにいた女性のほとんどは日本人と朝鮮人であった。 11.尋問調書 No.50 1943.4.9 ラバウル 日本人捕虜の供述 ラバウルの慰安所は軍隊の管理下にあり、日本人女性が働いていた。 12.尋問調書 No.52 1943.4.13 仏領インドシナ、中国、ラバウル 日本人捕虜の供述 慰安所は陸軍により仏領インドシナ(日本人女性)、中国(日本人女性及び中国人女性)、ラバウル(女性の国籍は不明)に設置されていた。 13.尋問調書 No.53 1943.4.13 - 日本人捕虜の供述 陸軍は中国人、朝鮮人、台湾人及び日本人女性のいる慰安所を設置していた。現地人女性はいなかった。 14.尋問調書 No.57 1943.4.17 ラバウル 日本人捕虜の供述 ラバウルに約20の慰安所があり、5つはココボ地域にあり、他は町の中にあった。全員日本人女性であった。これらの慰安所は主として将校によって利用され、兵卒はめったに入れなかった。値段は将校五円、兵卒一円であった。 15.尋問調書 No.60 1943.4.17 ラバウル 日本人捕虜の証言 陸軍の作戦地域における慰安所は、陸軍が開設し管理した。ラバウルの慰安所で雇用されていた慰安婦の詳細については自分は知らない。 16.尋問調書 No.63 1943.4.19 ラバウル 日本人捕虜の供述 ラバウルには慰安所があると聞いており、陸上勤務部隊の指揮下民間人が経営にあたっているのだと思う。慰安婦は日本人女性である。 17.尋問調書 No.67 1943.4.30 ラバウル 捕虜(中国人軍属)の供述 ラバウルでは、中国人は慰安所への出入りを禁止されていた。慰安所は軍によって維持されており、慰安婦は朝鮮人であった。 18.尋問調書 No.78 1943.5.15 ラバウル 日本人捕虜の供述 ラバウルには20歳から25歳の日本人女性がいる海軍慰安所があり、これらの女性は皆、日本から商売女であったと聞いている。 19.尋問調書 No.94 1943.6.15 ラバウル 日本人捕虜(軍医)の供述 軍が慰安所を経営したということは断じてなく、民間人が経営していたのを監督していた程度にすぎない。このような監督は戦争開始とともにはじまり、敵対行為が終了すると即座に中止されるとの取り決めがあった。 20.尋問調書 No.104 1943.6.27 ラバウル 日本人捕虜の供述 陸軍によって複数の慰安所が設けられたが、兵隊二千人に女性一人の割合だったので、将校だけしか利用できなかった。 21.尋問調書 No.573 1945.1.23 マニラ 日本人捕虜の供述 マニラの慰安所のうち幾つかは陸軍の管轄下にあった。そこでは値段はニ〜三円であり、慰安婦は日本人及び朝鮮人であった。民間人が経営しているところでは女性はフィリピン人で値段は10〜20円だった。 22.捕虜尋問調書(Prisoner of War Inerrogation Report) 1943 - 日本人捕虜の証言 (略) 23.時報(Bulletin)No.1483 1944.10.5 ダリャオ(フィリピン) 日本人将校の日記(1942.6.9付) 南シナを出発して以来初めて、我々は着物を着てパラソルを持った日本人女性を見た。我々にとってこれに勝る歓びがあるだろうか。彼女らは陸軍の慰安婦として、我々より一足早くこの地に上陸していたのである。 24.時事翻訳(Current Translations)No.100 - ラバウル ラバウルの海軍慰安所に関する注意事項 (略) 25.調査報告書(Research Report) No.120(2) 1945.2.16 - 連合軍内部で作成した報告書 日本軍における娯楽 II-九、慰安所 a ビルマ 捕虜四名の証言、b スマトラ 捕虜一名の証言、c 南西太平洋地域 捕虜四名の証言と捕虜一名の日記の抜粋 26.調査報告書 No.120(1)*1 1945.11.15 - 連合軍内部で作成した報告書 (略)
II.連合軍東南アジア翻訳・尋問センター(SEATIC)関係文書
(P116/294)
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdf
文書件名 日付 対象地 内容 記述の概要 1.SEATIC資料 No.116(P162-158/294) 1945.3.31 ビルマ 日本人捕虜の供述調書 マンダレー〜ミッチーナー鉄道沿線においては、鉄道に沿った日本軍駐屯地のほとんど全てに慰安所があり、通常朝鮮人と中国人の慰安婦がいた。 2.SEATIC資料 No.131(P157-152/294) 1945.4.28 ビルマ 日本人捕虜の供述調書 メイミョには何人かの慰安婦がいたが、自分は彼女たちに会う機会はなかった。慰安所の利用料金は三円五〇銭ないしは五円だった。 3.SEATIC資料 No.182(P151-148/294) 1945.7.6 マレイシア マレイシアにおける現地人の供述 日本軍人が、若い娘を得ようとして中国人の家に押し入っていくところを見たことがある。クアラ・ルンプールでは、友人の中国人が自宅から退去させられ、その住宅は軍人のための食堂に改造された。有益な目的のために使われるのならまだしも、食堂や慰安所に(自分たちの家が)改造されるのはたまらない、と多くの中国人が言っている。 4.SEATIC資料 No.186(P147-143/294) 1945.7.1 ビルマ 日本人捕虜の供述 ミッチーナーには五軒の売春宿があったが、自分は行ったことがないので、慰安婦のことについては何も知らない。 5.SEATIC資料 No.197(P142-138/294) 1945.7.2 タイ 日本人捕虜二名の尋問に基づくバンボンの日本軍駐屯地の地図 地図中に慰安所(Comfort House)の記載がある。
III.米国戦争情報局(United States Office of War Information)関係文書
(P118/294)
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdf
文書件名 日付 対象地 内容 記述の概要 1.心理戦作戦班日本人捕虜尋問報告(Japanese Prisoner of War Interrogation Report)四九号(P136-130/294) 1944.10.1 ビルマ ミッチーナー 二〇名の朝鮮人慰安婦及び慰安所経営者二名への尋問結果を基に作成した報告書 (略)
IV.写真資料
(P124/294)
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdf
文書件名 日付 対象地 内容 記述の概要 1.朝鮮人女性を尋問する中国人将校(P128/294) 1944.8.9 中国 米軍による写真 中国のSung Shanで捕らえられた朝鮮人女性を中国人将校らが尋問しているところの写真 2.日本軍慰安婦キムと米軍兵士(P127/294) 1944.8.3 ビルマ 米軍による写真 ミッチーナーで捕らえられた日本軍慰安婦キムを米軍兵士が尋問しているところの写真 3.ミッチーナー付近で捕虜となった慰安婦たち(P126/294) 1944.8.14 ビルマ 米軍による写真 ミッチーナー付近で捕虜となった慰安婦たちの写真 4.ミッチーナー付近で捕虜となった慰安婦たち(P125/294) 1944.8.14 ビルマ 米軍による写真 ミッチーナー付近で捕虜となった朝鮮人慰安婦たちの写真