法華狼さんやApemanさんが既に指摘済みですが、20年も前から知られている資料を今さら新発見であるかのように否認派が紹介しています。日本人捕虜尋問報告49号という従軍慰安婦問題を多少でも真面目に調べたことのある人ならほとんど誰でも知っているような極めて有名な資料です。
これまでも産経の古森氏のような歴史修正主義者らによって、否認論に使われてきてその度に史実派から指摘され呆れられてきた経緯もあります*1。
否認論者は基本的に勉強しませんので、過去の知識の蓄積ができず、まるで痴呆のように同じ否認論を繰り返しますが、この現象は意図的にデマを流している職業的歴史修正主義者以外に、レイシズムに惹かれて新規参入するにわか否認論者、いわゆる「ネットde真実」の人たちが少なくないからでしょう。
困ったことに、この日本人捕虜尋問報告49号について、原文や訳文をネットにアップしている否認論者はかなりたくさんいて検索しても否認論者のサイトばかり引っかかるのが現状です。継続的に慰安婦問題に言及している史実派にとって、日本人捕虜尋問報告49号などはあまりに基本的な史料すぎて何度もとりあげる価値を見出せないというのはあると思いますが、上記のような検索状況は好ましい状態とは思いませんので、改めてここでとりあげておきます。
ちなみに2007年にはStiffmuscleさんが取り上げていますし、同じ頃に私もアメブロ版で取り上げています。
報告書原文に関しては、政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成5の中(pdf P136-130/294)にありますが、参照しにくいため以下に引用します。別のサイトで引用されていることもありますが、誤記や抜けがありますので注意してください*2。
資料原文と訳
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfUNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION
Psychological Warfare Team
Attached to U.S. Army Forces India-Burma Theater
APO 689
Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49.
Place interrogated: Ledo Stockade
Date Interrogated: Aug. 20 - Sept. 10, 1944
Date of Report: October 1, 1944
By: T/3 Alex Yorichi
Prisoners: 20 Korean Comfort Girls
Date of Capture: August 10, 1944
Date of Arrival: August 15, 1994
at Stockade
アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
アメリカ戦時情報局心理作戦班
APO六八九日本人捕虜尋問報告 第四九号
尋問場所 レド捕虜収容所
尋問期間 一九四四年八月二○日〜九月一○日
報告年月日 一九四四年一○月一日
報告者 T/3 アレックス・ヨリチ
はじめに
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfPREFACE
This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.
The report shows how the Japanese recruited these Korean "comfort girls", the conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to the Japanese soldier, and their understanding of the military situation.
A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers. The word "comfort girl" is peculiar to the Japanese. Other reports show the "comfort girls" have been found wherever it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean "comfort girls" recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318はじめに
この報告は、一九四四年八月一○日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた二○名の朝鮮人「慰安婦」と二名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。
「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、一九四二年にこれらの女性およそ七○三名を海上輸送したと伝えられている。
ここの一部は否認派によく利用されていますが、慰安婦について「attached to their Army in Burma(ビルマ駐留日本軍に所属)」と認識されていたことは取り上げられません。この報告書には、日本軍は売春婦を徴集し、日本軍に所属させていた、という米軍の認識が記載されていることになりますが、否認派にとって都合の悪い部分は無視される傾向にあります。
徴集
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfRECRUITING;
Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen.
The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had been connected with "oldest profession on earth" before. The contract they signed bound them to Army regulations and to war for the "house master " for a period of from six months to a year depending on the family debt for which they were advanced ...[判読できず]*3
Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master " at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.
Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318徴 集
一九四二年五月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地——シンガポール——における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、二、三百円の前渡し金を受け取った。
これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡しされた金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
これらの女性およそ八○○人が、このようにして徴集され、一九四二年八月二○日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、八人ないし二二人の集団でやって来た。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの四つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。
ここには、朝鮮人女性が騙されて徴集され、借金で縛られ、日本軍相手の売春を強要されたことが書かれています。ほとんどの女性は職業的な売春婦でなかったことも書かれています。騙されて売春婦にされた女性を日本軍は助けることもせず、それどころか日本軍の要求に基づく徴集であったわけですから、日本軍が非難されるのは当たり前です。
性向
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfPERSONALITY;
The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about twenty-five years old, uneducated, childish, and selfish. She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards. She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself. Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman." She claims to dislike her "profession" and would rather not talk either about it or her family. Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers. She is afraid of Chinese and Indian troops.
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318性 向
尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は二五歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。
ここも否認論者によって人身売買被害を受けた朝鮮人女性を侮辱するためによく利用されています。しかし、"knows the wiles of a woman."(「女の手練手管を心得ている」)という部分がわざわざカギ括弧になっている点から、楼主証言をそのまま記載したと見るべき部分でしょう。楼主にしてみれば、米軍が人身売買被害者に同情して楼主の責任を問われたくはありませんから、被害者の言うことは信用するな、的な証言をするのが普通です。
“she feels that they are more emotional than Japanese soldiers”という部分については、慰安婦らが日本軍内においてどのように扱われていたかを示唆すると言えるでしょう。
生活および労働の状況
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfLIVING AND WORKING CONDITIONS;
In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house (usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master" as they received no regular ration from the Japanese Army. They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma. They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home.
While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318生活および労働の状況
ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を配給されていなかったので、ミッチナでは「慰安所の楼主」から、彼が調達した食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活二年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。
ここも「慰安婦らはいい暮らしをしていた」とする否認派によく利用される部分ですが、戦況も通貨価値も比較的安定していた1943年のビルマの話であることと、楼主による証言の可能性が高いことを踏まえる必要があるでしょう。“They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places.”についても、贅沢だった、高級地近くに住んでいた、というのは、誤訳と言ってよく、他の場所に比べればビルマの中でやや贅沢に暮らした、と言う程度でしょう。それも1943年までの話です。1943年からのビルマの状況の変化については「1943年から1945年にかけてビルマ方面に送られた慰安婦の状況」を参照してください。
料金制度
ここに関しては、原文タイトルが読みにくく、“PRIOR SYSTEM”としているサイトもありますが、“PRICE SYSTEM”が正しいです。
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfPRICE SYSTEM;
The conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular areas. According to interrogations the average system was as follows:
1. Soldiers 10 AM to 5 PM 1.50 yen 20 to 30 minutes 2. NCOs 5 PM to 9 PM 3.00 yen 30 to 40 minutes 3. Officers 9 PM to 12 PM 5.00 yen 30 to 40 minutes These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318料金制度
慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用度の高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。
1 兵−− 午前一○時〜午後五時 一円五○銭 二○分〜三○分 2 下士官 午後 五時〜午後九時 三円−−− 三○分〜四○分 3 将校− 午後 九時〜午前○時 五円−−− 三○分〜四○分 以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は二○円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた。
これは単純に料金制度に関する記述です。追記すると、「円」表記の料金ですが、実際に使用されたのはルピー軍票で、慣用的に「円」と呼ばれていただけです。また、丸山大佐が値切って事例から、慰安所が軍の命令に従属する立場であることを示唆する記述とも言えます。
スケジュール
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfSCHEDULES;
The soldiers often complained about congestion in the houses. In many situations they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying.
In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units. Usually two men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was also on hand to keep order. Following is the schedule used by the "Kyoei" house for the various units of the 18th Division while at Naymyo.
Sunday 18th Div. Hdqs. Staff Monday Cavalry Tuesday Engineers Wednesday Day off and weekly physical exam. Thursday Medics Friday Mountain artillery Saturday Transport Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus causing ill feeling among many of the soldiers.
Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard about two inches square with the prior on the left side and the name of the house on the other side. Each soldier's identity or rank was then established after which he "took his turn in line". The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the person were too drunk.
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318利用日割り当て表
兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員二名が、隊員の確認のために慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第一八師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。
日曜日—— 第一八師団司令部 月曜日—— 騎兵隊 火曜日—— 工兵隊 水曜日—— 休業日、定例健康診断 木曜日—— 衛生隊 金曜日—— 山砲兵隊 土曜日—— 輜重隊 将校は週に夜七回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。
兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約二インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。
ここには“The girls complained”と慰安婦らが利用する日本兵が多すぎて過酷な状況であることに不満を持っていたことが記載されています。また利用できなかった兵士が荒れることにも言及されています。接客を拒絶する権利があるとも書いてありますが、現実的には泥酔して買春行為ができない兵士を断る程度で単純に自由意志で断れる状況ではなかったのは、“The girls complained”以下の内容から容易に思い至ります。
報酬および生活状態
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfPAY AND LIVING CONDITIONS;
The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnings depending on how much of a debt each girl had incurred when she signed her contract. This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the "master". Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.
In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.
The interrogations further show that the health of these girls was good. They were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own which had been supplied by the army. They were well trained in looking after both themselves and customers in the matter of hygiene. A regular Japanese Army doctor visited the houses once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318報酬および生活状態
「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の五○ないし六○パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額一五○○円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に七五○円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
一九四三年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りするように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が実施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。
ここが否認論者がもっとも好むセカンドレイプの材料です。慰安婦の報酬にかかわる記述ですが、内容から楼主証言による可能性が高いことはまず踏まえるべきです。また、月1500円というのは、上記の通り実際の通貨単位はルピー軍票であり、1944年に入ると加速度的にインフレが進行し月1500円(ルピー)が高給とは程遠いことを以前、「1943年から1945年にかけてビルマ方面に送られた慰安婦の状況」の記事に書きました。軍票のインフレが慰安婦高給説を否定するというのは、吉見教授が「日本軍「慰安婦」制度とは何か」でも記載しています。
そもそもこの報告書中でも“Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles(多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。)”と書かれていますので、高給説など出てくる余地はありません。
“In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.(一九四三年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。)”の部分をあげて、慰安婦は帰国できたのだから自由があったかのように主張する否認派もいますが、2つの点で間違いです。
1つは、帰国許可に対して借金完済を条件とするのは、借金の契約と身体拘束を目的とする契約は独立であり、身体拘束を目的とする契約が無効であるとした1900年の大審院判決に反している点です。
明治33年1900年2月大審院判決
「貸座敷営業者ト娼妓トノ間ニ於ケル金銭貸借上ノ契約ト、身体ヲ拘束スルヲ目的トスル契約トハ各自独立ニシテ、身体ノ拘束ヲ目的トスル契約ハ無効ナリ」
つまり、日本軍には帰国を希望する慰安婦に対し借金完済を条件と課す法的根拠がありません。にも関わらず、日本軍は慰安婦らの自由を拘束したのですから明らかな非人道行為です。
2つ目は、この時借金を完済した慰安婦に対し日本軍は帰国許可を出しましたが、この慰安婦は結局は帰国できていません。そのくだりは別の報告書に記載されています。
(「従軍慰安婦関連資料集成5」26.調査報告書 No.120の「AMENITIES IN THE JAPANESE ARMED FORCES」(1945年11月15日)「II AMUSEMENTS、9.Brothels、b.BURMA)
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdf
When a girl is able to repay the sum of money paid to her family, plus interest, she should be provided with a free return passage to KOREA, and then considered free. But owing to war conditions, no one of prisoner of war's group had so far been allowed to leave; although in June 1943, 15 Army Headquaters had arranged to return home those girls who were free from debt, and one girl who fulfilled these conditions and wished to return was easily persuaded to remain."
日本の軍人に対する反応
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfREACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS;
In their relations with the Japanese officers and men only two names of any consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina and Maj. Gen.Mizukami, who brought in reinforcements. The two were exact opposites. The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men; the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who worked under him. The Colonel was a constant habitué of the houses while the General was never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly deserted while Gen. Mizukami committed suicide because he could not evacuate the men.
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318日本の軍人に対する反応
慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。
ここはミッチナに関係する第18師団歩兵第114連隊長の丸山大佐と第56師団歩兵団長の水上少将の記述です。慰安婦や楼主から見ての評価と言えるでしょう。
兵士たちの反応
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfSOLDIERS REACTIONS;
The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort house" according to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn". However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.
All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or secrets with them. Though the girls might start the conversation about some military matter the officer or enlisted man would not talk, but would in fact "scold us for discussing such un-lady like subjects. Even Col. Maruyama when drunk would never discuss such matters."
The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines, letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of "comfort bags" filled with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and wooden clothes. The lipstick and cloths were feminine and the girls couldn't understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender could only have had themselves or the "native girls".
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318兵士たちの反応
慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦線に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。
これは慰安婦らから見た日本軍将兵の様子ですが、泥酔した兵士がもっとも面倒な相手だった様子がわかります。また、前線兵士に銃後から送られてくる女物の口紅や下駄は、本来日本にいる恋人や妻が戦地の夫に自分を思い出してほしいと思って送られたにも関わらず、慰安婦らへの贈り物にされたこともわかります。
現在で例えれば、海外に派遣された自衛隊員の夫に妻が送ったプレゼントを、夫が現地で売春婦*4の気を惹くために使ったということになります。全く救いのない話です。
軍事情勢に対する反応
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfREACTION TO THE MILITARY SITUATION;
It appears they knew very little about the military situation around Myitkyina even up to and including the time of their retreat and capture. There is however some information worth nothing:
"In the initial attack on Myitleyna and the airstrip about two hundred Japanese died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.
"Col. Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn't seem to aim at any particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time and only when they were sure of a hit."
Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around Myitkyina were dispatched elsewhere, to storm the Allied attack in the North and West.About four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evidently Col. Maruyama did not expect the town to be attacked. Later Maj. Gen. Mizukami of the 56th Division brought in reinforcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.
It was the consensus among the girls that Allied bombings were intense and frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were wounded and killed.
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318軍事情勢に対する反応
慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。
「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約二○○名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は二○○名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」
「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」
ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第一一四連隊所属の約四○○名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第五六歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も一、二名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。
これは、ミッチナの攻防戦に関して慰安婦らが見知った情報についての記載です。敵の攻撃を避けるための蛸壺の中でも売春を強要されたことがわかります。
退却および捕獲
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfRETREAT AND CAPTURE;
The story of the retreat and final capture of the "comfort girls" is somewhat vague and confused in their own minds. From various reports it appears that the following occurred: on the night of July 31st a party of sixty three people including the "comfort girls" of three houses (Bakushinro was merged with Kinsui), families, and helpers, started across the Irrawaddy River in small boats. They eventually landed somewhere near Waingmaw, They stayed there until August 4th, but never entered Waingmaw. From there they followed in the path of a group of soldiers until August 7th when there was a skirmish with the enemy and the party split up. The girls were ordered to follow the soldiers after three-hour interval. They did this only to find themselves on the bank of a river with no sign of the soldiers or any mea ns of crossing. They remained in a nearby house until August 10th when they were captured by Kaahin soldiers led by an English officer. They were taken to Myitleyina and then to the Ledo stockade where the interrogation which form the basis of this report took place.
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318退却および捕獲
「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、七月三一日の夜、三つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む六三名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは八月四日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、八月七日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは三時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、八月一○日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。
ミッチナ陥落以降、慰安婦らが敗走し連合軍の捕虜となるまでの経緯です。退却の中で日本兵に置き去りにされたことがわかります。
ネット上のコピペでは、この部分が欠落していることがよくあります。
宣 伝
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfPROPAGANDA:
The girls know practically nothing of any propaganda leaflets that had been used against the Japanese. They had seen a few leaflets in the hands of the soldiers but most of them were unable to understand them as they were in Japanese and the soldiers refused to discuss them with the girls. One girl remembered the leaflet about Col. Maruyama (apparently it were Myitkyina Troop Appeal), but she did not believe it. Other heard the soldiers discussing leaflets from time to time but no tangible remarks resulted from their eavesdropping. However it is interesting to note that one officer expressed the view that "Japan can’t win this war".
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318宣 伝
慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを二、三見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。一人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちがたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。
連合軍が日本軍内に動揺を誘うために巻いたプロパガンダ用の伝単の効果に関して慰安婦らに聴取した内容です。慰安婦らは貧困などにつけこんで騙された女性たちが多く、日本語を読める者はほとんどいなかったでしょうから、慰安婦らには伝単の効果はほとんどなかったのは当然と言えます。それでも米軍は「ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたこと」の情報を得ています。
要 望
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdfREQUESTS
None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina but very did overhear the soldiers mention a "radio broadcast."
They asked that leaflets telling of the capture of the "comfort girls" should not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture. They did think it would be a good idea to utilize the fact of their capture in any droppings planned for Korea.
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318要 望
慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。
彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されている投下に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。
慰安婦らの要望に関する記述です。この部分もネット上の引用では欠落していることが多いです。
捕虜となった慰安婦らは、前線で慰安婦が捕虜となったことを宣伝に使うと他の慰安婦らに危険が及ぶと考えたことがわかります。日本兵は足手まといになった慰安婦らを始末する可能性があると考えたのかもしれません。一方で、朝鮮で投下する伝単に使用することには同意していますが、これは自分の無事を伝えたいという望郷の念によるものかもしれません。
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20121001/1363709318付録A
以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた二○人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人二人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。
名 年齢 住 所
1 「S」 二一歳 慶尚南道晋州
2 「K」 二八歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
3 「P」 二六歳 慶尚南道晋州
4 「C」 二一歳 慶尚北道大邱
5 「C」 二七歳 慶尚南道晋州
6 「K」 二五歳 慶尚北道大邱
7 「K」 一九歳 慶尚北道大邱
8 「K」 二五歳 慶尚南道釜山
9 「K」 二一歳 慶尚南道クンボク
10 「K」 二二歳 慶尚南道大邱
11 「K」 二六歳 慶尚南道晋州
12 「P」 二七歳 慶尚南道晋州
13 「C」 二一歳 慶尚南道(ママ)慶山郡〔以下略〕
14 「K」 二一歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
15 「Y」 三一歳 平安南道平壌
16 「O」 二○歳 平安南道平壌
17 「K」 二○歳 京畿道京城
18 「H」 二一歳 京畿道京城
19 「O」 二○歳 慶尚北道大邱
20 「K」 二一歳 全羅南道光州
日本人民間人
1 キタムラトミコ 三八歳 京畿道京城
2 キタムラエイブン 四一歳 京畿道京城
この部分は、慰安婦らの捕虜となった時点の年齢ですが、彼女らがビルマに来たのが1942年であることから、連行当時の年齢は17〜19歳と言った若年者が多かったことがわかります。
日本軍はこれら人身売買の被害者となった未成年女性に対し、救助するどころか売春を強要したわけです。そもそも売春婦を要求したのも日本軍ですから、集められてきた女性に対し人身売買の被害者ではないかなど調べもせず楼主や女衒と共犯関係となることを自ら選んだ最低の公的組織と言えるでしょう。