アンダマン・ニコバルの話

アンダマン諸島が英領インドの一部としてイギリスの植民地となったのは1789年9月です。しかしこの最初の植民は1796年の放棄で終了します。アンダマンが再度英領インドの一部になるのは60年以上後の1858年1月22日です。この頃1824年〜1852年にかけて、イギリスはビルマ侵略を繰り返し、次々と英領インドに併合しています。1824年から1826年までを第一次英緬戦争と呼び、1852年を第二次英緬戦争と呼びます。この一連の侵略で英領インドや直轄領にしていたペグーなどを合わせて1862年に英領(下)ビルマが建設されます*1。この2年後の1864年にアンダマン諸島は英領インドから英領ビルマへの所属が変わりますが、1868年に再び英領インド下に戻ります。
この1868年、イギリスやデンマークによって植民と放棄が18世紀から繰り返され1848年に放棄されていたニコバル諸島に関しデンマークの持っていた権利がイギリスに売却され、アンダマン諸島と共に英領インドに属しています。
アンダマン・ニコバルが英領インドになって間もなくの1872年、視察に来たインド総督が暗殺される事件が起こっています*2。この事件に関する記述の中にはアンダマン・ニコバルを英領ビルマとしている記事もありますが、この時期の英領ビルマ自体が英領インドの枠組み内に存在していますので表記に混乱が生じているのでしょう。
さて、その後1885年から1886年の第三次英緬戦争によってビルマ全土が完全に英領インドに併合されます。
そして20世紀に入って1937年、ビルマは英領ビルマとして英領インドから切り離されますが、アンダマン・ニコバルはそのまま英領インド内に留まりました*3

1941年の英領インドの国勢調査*4ビルマは含まれていませんが、アンダマン・ニコバルは“Andamans and Nicobars”として調査されています。
この直後の1942年、アンダマン・ニコバルは侵攻してきた日本軍によって占領され1945年の敗戦までその状態が続いたのです。

鄭陳桃氏がアンダマンの慰安所に連行されたこと*5を「インドに連れて行かれた」と言っても意味としては全く問題ありません。これで誤解をする人はそもそもアンダマンがインドであることを知らない人なので、勉強してね、という以外の話にはなりません。