「6.勤務実態「毎日20〜30人の男性の相手」」
6.勤務実態「毎日20〜30人の男性の相手」
http://www.sankei.com/life/photos/150317/lif1503170028-p1.html
→単純計算で不可能
教科書の記載は、「Once forced into this imperial prostitution service, the "comfort women" catered to between twenty and thirty men each day.」*1とあるようですが、一人の慰安婦が毎日20〜30人の兵士に供された、と言うより、慰安婦“たち”は、日に20〜30人の兵士に供されたこともあった、くらいの意味合いでしょう。
で、そういう証言は元慰安婦の証言にも元兵士の証言にも見られますので、教科書の記載として間違いとは言えませんね。
ちなみに、仮に毎日20〜30人相手に売春を強要されたとしても以下の条件を考慮すればどうでしょうか。
アジア太平洋戦争に参加した日本軍兵士の数を人年で示すと、2000万人年*2。兵士の慰安所利用頻度を週1回として年53回。2000万人年が年53回利用したとして、アジア太平洋戦争8年間に慰安所が利用された総回数は、10億6000万回。
慰安婦の勤務日を年300日、慰安婦の平均勤務年数を1年*3として慰安婦の1日の接客数を20〜30人という前提を加味すると慰安婦1人の総接客数は、6000〜9000人。
以上の条件から、慰安婦人数を推定すると、11.8〜17.7万人となります。20万人という推計数とほぼ同等と言っていい人数ですね。
逆に秦氏推定の2万人を採用すると、その2万人の慰安婦は平均5万3000回の接客を行なったことになります。これを個々の慰安婦が8年間勤務したとしても、1日に22回接客したことになります。秦氏は「毎日20〜30人の男性の相手」がありえないと言いますが、それなら、秦氏自身の慰安婦総数2万人という推計が誤っているとしか言いようがありませんね。
もちろん、この矛盾を回避するために秦氏は、以下のような捏造を行なっているわけです。
また20万人の慰安婦が毎日20人から30人の兵士たちに性サービスをしたと書いてあるんですが、当時海外に展開した日本軍の兵力は約100万人です。教科書に従えば、接客は1日5回という統計になりますから、20万人が5回サービスすると100万になりますので、兵士たちは戦闘する暇がない。毎日慰安所に通わなければ計算が合わなくなるわけですね(会場から笑い)。そういう誇大な数字が教科書に出されているということです。
http://blogos.com/article/108036/
反論2でも指摘したように、1993年には日本兵数を300万人と推定していた、1999年には250万人と証言を変え、2015年には100万人だと変更しました。証言をコロコロ変える全く信頼に値しない秦氏ですが、性暴力被害者を侮辱することが研究よりも優先しているのですから仕方ないですね。
そうでなければ「単純計算で不可能」とか書いておきながら、その単純計算すら間違う秦氏は単純以下の頭脳しか持ってないということになりますが。
証言
http://www.awf.or.jp/3/oralhistory-00.html証言1 金田君子(韓国)
石家荘の慰安所で
朝から夜まで兵隊を相手にした。15人以内だった。討伐から帰ったときは、朝早くから来た。多い日は20人位になった。
http://www.awf.or.jp/3/oralhistory-00.html証言2 マリア・ロサ・ヘンソン(フィリピン)
精米所につくと、おなじことがはじまりました。ときには朝から、ときには夕方から、20回以上もされたことがある。
http://www.geocities.jp/forever_omegatribe/ianfu.html総山孝雄少将(近衛師団)のシンガポールでの体験
英軍時代には一晩に一人ぐらい相手にして自分も楽しんでいたらしい女性たちは、すっかり予想が狂って悲鳴をあげてしまった。4,5人すますと、「もうだめです。体が続かない」と前を押さえてしゃがみこんでしまった。それで係りの兵が「今日はこれまで」と打ち切ろうとしたら、待っていた兵士達が騒然と猛り立ち、殴り殺されそうな情勢になってしまった。恐れをなした係りの兵は、やむを得ず女性の手足を寝台に縛りつけ、「さあどうぞ」と戸をあけたという。ちょうど番が来て中に入ったくだんの衛生兵は、これを見て真っ青になり、体の全ての部分が縮み上がってほうほうのていで逃げ帰ってきたというのである。 (林博史編「教科書に書かれなかった戦争 Part 27」)
これは回数の証言ではありませんが、どのような状況で売春が強要されたかを示す資料で、秦郁彦氏が「やむを得ず女性の手足を寝台に縛りつけ、「さあどうぞ」と戸をあけたという」と書かれた部分を削除して引用し、慰安婦らは強制ではなかったと主張したことで知られている部分なので取り上げました*4。
http://ci.nii.ac.jp/els/110005050294.pdfイ・オクソン(李玉善)・ハルモニの証言
その当時13歳から15歳の私たちは、強制的に連行され「慰安婦」にさせられて、一日に40人から50人にあたる軍人の相手をさせられました。話をちゃんと聞いてなかったり、言っていることを聞いてない時は、人を皆立たせておいて刀で刺したり、それでも話を聞いていない時は、その人を刀で刺して死なせたりするわけです。それを私たちが見ているところでその人を刀で死なせたりして、死なせた人を埋葬もせずに、ただ町に捨てるわけです。犬が食べられるようにという意味で、捨てられるわけです。こんな悔しいことがあると思いますか。
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20130602/1370160233宋神道(在日韓国人・日本軍「慰安婦」制度被害者)
こういうふうなことしえ、ま、だんだんだんだん日本語通じるようになると、ニ〜三年の内に、今度は部隊づきとして連れて行かれたの。咸寧だとか、岳州だとかな。さまざまなとこ連れて行かれて、毎日のようじゃないんだけども、一日ね、五十人もとったり、八十人もとったりするときもあんの。そうするとね、立ってやらせろだのさ、寝てやらせろだの言うわけよ。そんなことしないとビンタとられる。ほいで巻脚絆脱げって言っても巻脚絆も脱がない。じゃ、どうするかって言ったらね、「裸んなれ」って言うんだね。一人さ裸んなったら、こりゃ他の人間がたまらないべや。ゆっくりしたい気持があるわけだけど、帳場の方ではやかましい。それで裸にならないと、今度満足しないからビンタとる。もう、ずうーっと並ばってんの。この人間たちの暴れまくるとこでは、ほんとにこれ死んだ方がいいんだか、生きた方がいいんだか、それで兵隊さんたちが討伐に行って帰って来ると、また兵隊たちが多くなる。すると一日三十人でもとるし、四十人もとるし、もうほんとにどうしたらいいんだか、わけわかんないのよ。ね。