従軍慰安婦高収入説は誤り・3(再掲)

前回記載は2007年の以下のアメーバ版です。

都市伝説・慰安婦高額報酬説(追記)|誰かの妄想

高収入説再検証・根拠資料 元従軍慰安婦文玉珠氏の貯金通帳

文玉珠氏は1992年の戦時郵便貯金の払い戻し請求訴訟いわゆる下関裁判の原告としてネット上では知られていますが、実際にはそのような裁判は存在しません*1。これ自体、ネトウヨの捏造と言ってもよいくらいですが、文玉珠氏が訴訟の原告として参加したことは事実です。訴訟の名称は「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」で提訴は1991年12月6日ですが、文玉珠氏が原告として参加したのは1992年4月13日です*2。訴状と判決はこちらで見られますが、途中から参加した文玉珠氏に関する記述は見当たりません。
ちなみに同様の訴訟として、釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟、いわゆる関釜裁判があり、ほぼ同時期の1992年12月2日に提訴されています*3が、文玉珠氏はこの訴訟の原告ではありません*4。この訴訟の山口地裁の判決を別名「下関判決」と呼び、ネトウヨの捏造の元ネタになったものと思われます。

架空の裁判まででっち上げた否定論者ですが、この文玉珠氏の貯金額をも否定論の根拠に利用しています。
その貯金額は1943年6月から1945年9月までの間に12回の入金記録があり、内容は以下の通りです。

入金日 入金 払戻 残高 備考
S18.3.6 500円 - 500円 -
S18.3 1円 - 501円 利子
S18.7.10 700円 - 1201円 -
S18.8.15 550円 - 1751円 -
S18.9.18 900円 - 2651円 -
S18.10.2 780円 - 3431円 -
S18.11.6 820円 - 4251円 -
S19.2.12 0円 - 4251円 -
S19.2.16 950円 - 5201円 -
S19.3.30 85円 - 5286円 -
S19.3 78円 - 5364円 利子
S19.5.18 - 100円 5264円 -
S19.6.21 - 800円 4664円 -
S20.3 121円 - 4785円 利子
S20.4.4 5560円 - 10345円 -
S20.4.26 5000円 - 15345円 -
S20.5.23 10000円 - 25345円 -
S20.9.29 300円 - 25645円 -

(残高は画像からの計算、1円未満切捨)
*5
元金合計25245円、利子込で25645円となり、当時としては大金と言えるため、これも慰安婦否定論者から格好の攻撃の的とされました。しかしこの攻撃は2つの点で的外れです。

ラングーンにおけるインフレ

1941年12月を100とした物価指数をあわせると以下のようになります。

入金日 残高 物価指数 換算残高*6
S18.3.6 500円 - -
S18.12 4251円 1718 247円
S19.3 5364円 2629 204円
S19.6 4664円 3635 128円
S19.9 4664円 5765 81円
S19.12 4664円 8707 54円
S20.3 4785円 12700 38円
S20.6 25345円 30629 83円
S20.8 25345円 185648 14円
S20.9.29 25645円 - -

猛烈に進むインフレの中で貯金残高のラングーンにおける実勢価値は急落していたわけです。

大半は慰安婦としての売春で得た報酬ではない

文玉珠氏の証言にちゃんと書いてあります。

 将校たちの宴会に呼ばれる回数が増えてきた。それはうれしいことだった。チップの現金収入があるし、そのあいだだけでも慰安所で兵士の相手をする時間が減ったからだ。
(略)
 わたしの手もとには、少しずつもらったチップが貯まって大きな金額になった。友達と比べてわたしだけが大金を持っているのは都合が悪い。事務を仕事にしている軍人に、わたしも貯金できるか尋ねると、もちろんできる、という。兵隊たちも全員、給料を野戦郵便局で貯金していることをわたしは知っていた。貯金することにした。兵隊にたのんで判子も作ってもらい、お金を五百円預けた。
「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私」1996年2月1日、梨の木舎(P74-76)

 (略)アキャブにいた時、将校たちは、日本語もうまいし歌も上手だといって私をほめてくれました。そして、誕生日のパーティや送別会をする時には朝鮮人の中では文原ヨシコ*7のほかにはいないといって、日本人慰安婦といっしょに私をよんでくれました。そうすると、私たちは決められた場所に行ってお酒のお酌もし、踊りを踊ったり、歌を歌ったりするのですが、一週間に二、三度はそんなことがあって、その度によばれて行きました。上手に相手をつとめると彼らはチップをはずんでくれるので、私はこのお金を使わずに貯金しました。
(略)こうして貯めたお金の他にも、酒やたばこもただでもらうことが多かったので、私はお金ができると、少しずつ野戦郵便局に貯蓄しました。そしてその後も私はお金ができれば、通帳に積み立てておいたのです。
「「証言 強制連行された朝鮮人慰安婦たち」1993年」(P175)

文玉珠氏が通帳を作ったのは記録によれば、1943年3月6日です。この頃アキャブにいて上記のような宴会でのチップを積み立てた貯金です。つまり通常の慰安婦としての売春で設けたお金ではありません。

1945年4月〜6月に急激に増えた2万円分については、以下のような事情を考慮する必要があるでしょう。
1945年3月頃のエピソードです。

「意外な収穫
 この頃はまだ昼間行動ができて、ペグーを発った日の夕方、ある渡河点に着いた。ところが、橋はすでに爆撃で落され、車はここですべて放棄する。街道にはトラックが延々二、三キロくらいつながっている。みなここで焼き棄てるのだ。
 街道から五、六百メートル外れた民家に宿をとり、食事をすませてから、私は一人で街道まで散歩をかねて様子を見にいった。もう真暗だった。街道は堤防のように高くなっているので、人影や車の影がすけて見えた。
 ある車の傍に近づいたら、声をかけられた。少尉か中尉の将校二人と四、五人の兵が車を囲んでいた。その将校の一人が、お宅の部隊は何人ほどですかと言う。二十名ほどですと答えたら、「私どもは経理部の者で、これから車両と荷物を焼き棄てます。入用の物があったらお取り下さい。将校服もだいぶあるから、二、三着持っていかれたら」とすすめる。どうやら相手は私を将校と見誤っているのだ。兵隊としては年輩で、言葉遣いや身のこなしが何となしに年寄りらしく感じられ、軍隊用語でいわゆる「態度が大きい」ところに暗闇ときているから間違えられたのだろう。
 私は何食わぬ顔をして「いや服は持っています。荷物になるのでせっかくですが」と答えたら、「金はどうです。今全部焼却するところなので必要なだけ持っていって下さい。まだまだ入用ですよ。二、三十万円くらいどうですか」と言う。「そうですな、頂いておきましょう。しかし荷物も多いし、当座用に三万円ほど頂きましょうか」と返事して、新札の軍票三万円を受け取り、例を言って別れた。」
(「ビルマ敗戦行記」荒木進、P86-87、岩波新書、第1刷、1982/7/20)

http://ssstorage.jugem.jp/?eid=4

貯金残高が2万円増えたまさにその時期、ビルマからの敗走でだぶついた軍票はこのように扱われる程度に価値に過ぎませんでした。

判定

文玉珠氏は、慰安所を利用する日本軍との関係を良好に保ち、慰安婦としてはほとんど得られない金額を、宴会でのチップとして受け取っていました。ビルマ敗走後は価値の暴落した大量の軍票を受け取り貯金することで記録を残すことができましたが、いずれも慰安婦として儲けた金額ではなく、高収入説の根拠にはなりません。

ビルマでの戦況や軍票の暴落、文玉珠氏の証言について碌に知らない、あるいは偏見と先入観で事実を歪めて解釈しなければ、文玉珠氏の貯金通帳を根拠とした高収入説は成立しません。

*1:http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20090726/p1

*2:http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/genkoku.html

*3:(2次)1993年12月1日、(3次)1994年3月14日

*4:http://www.kanpusaiban.net/

*5:http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20071112/p1

*6:残高を物価指数100の場合に換算した金額

*7:文玉珠氏のこと