大山事件と第二次上海事変の背景・1

8月9日にアップするつもりだったのが、色々あって11日にアップ。

盧溝橋事件

2014年7月7日は盧溝橋事件から77周年です。盧溝橋事件から始まる日中両軍の衝突は、正確には日本側が支那駐屯軍という海外駐留軍であり、中国側が冀察政務委員会という河北省・チャハル省を治める地方政府所属の第29軍でした。日本の海外派遣軍が中国の地方政府に圧力をかけ利権を獲得するというやり口は、盧溝橋以前から頻発していました。
盧溝橋事件以後、現地で一旦成立した停戦は、日本側現地軍にとっては冀察政務委員会という地方政府(宋哲元)に軍事的圧力をかけて利権を奪取できるという見通しから発したものであり、冀察政務委員会(第29軍)にとっては国民政府中央からの全面的な支援をそれまでの経験上期待していなかったことから利権の引渡しと引き換えに地方政府の維持を優先しようとする生存本能から出たものです。
つまり、現地日本軍はこれだけ脅せば中国は要求を呑むだろうという恫喝者の態度であり、中国地方政府は国民政府中央と現地日本軍との板ばさみの中で地方政府存続を優先した妥協を示す態度であったわけです。
これに対し日本政府(近衛文麿)は軍を統制する上での政治のリーダーシップを取ろうと軍以上の強硬策を取って、7月11日に内地師団の華北派兵を決定します。一方の国民政府(蒋介石)も満州事変以来止むことのない日本による中国侵略に刺激された中国人の抗日意識をこれ以上押さえつけることができず、宋哲元に対し日本側と妥協しないことを求め、日本側に対しても中央の了承のない現地協定は無効と宣言します。
それだけではなく、現地日本軍の末端将兵の間では中国人に対する蔑視・優越感が蔓延し、在留邦人は日本軍の侵攻を煽り、将校レベルでは満州事変を華北で再現させて栄達するという期待感がありました。中国軍内部でも熱河や長城戦以来の日本軍に対する反感や中国民衆内に広がった抗日意識があり、日中共に下級レベルでの対立・緊張は現地指揮官の統制を超えつつあったわけです。
例えるなら、地方の支社長(宋哲元)はヤクザの若頭(支那駐屯軍司令部)に脅され、上納金を払うことでその場を取り繕うとしたものの、支社長は本社社長(蒋介石)からヤクザに譲歩するなと釘をさされ、支社社員からはヤクザと戦おうと突き上げられ、一方のヤクザの若頭も組長(日本政府)から舐められるな、徹底的にやれと怒鳴られ、配下のチンピラも若頭の指示に従わず殴りこもうと意気込んでいる状態だったと言えるでしょう。加えて比較的穏健だった若頭(田代皖一郎)が病気で倒れ、新しく武闘派(香月清司)が若頭になったことで状況が悪化します。
それらが結局、停戦を永続的なものにすることを妨害する日本軍機による中国軍用列車への空襲(1937/7/18)、一文字山付近の砲撃戦(1937/7/19)*1、郎坊事件*2(1937/7/25-26)、広安門事件(1937/7/26)、宝通寺の戦闘*3(1937/7/27)、団河行営の戦闘*4(1937/7/27)などの原因となりました。団河行営の戦闘での敗残中国兵約200人が日本軍に虐殺されています。

郎坊事件(1937/7/25-26)

中国地方政府は、7月19日に発せられた最後通牒に対して相当の譲歩を示し、第37師(馮治安)の撤退を開始させています。しかし、そうした緊張緩和の努力が為されている最中に「電線修理」の名目で中国側管理地域内の郎坊駅に日本軍は一個中隊を派遣し、深夜になっても一個中隊がかりで「電線修理」を続け、中国側に宿舎の提供を要求するなど挑発し、衝突に至ります。停戦が模索されている時期に相手側支配地に一個中隊を派遣して居座ってまで「電線修理」をする必要があったのかはかなり疑問です。

7月26日には日本軍は北京を包囲する態勢をほぼ完成させ、日本側にも責任のある小規模な衝突を理由に最後通牒を発します。「右実行を見ざるに於いては貴軍に誠意なきものと認め遺憾ながら我が軍は独自の行動をとるの已むなきに至るべし。この場合起こるべき一切の責任は当然貴軍において負わるべきものなり。」*5と中国側に一方的な撤退を要求し、「本月28日正午」までと期限を切りました。そしてその期限前の7月28日明け方に日本軍は北京に対する総攻撃を開始します。南苑の戦闘は28日中に兵力・装備ともに優勢な日本軍の勝利で終わり、学生らを含む敗残の中国兵約800人が日本軍により虐殺されました*6
日本軍の攻撃と虐殺によって多くの血が流された7月28日夜半、宋哲元は北京を張自忠に委ね退去し、北京城内は戦火を免れることになります。北京城外では7月29日に至っても北苑などで戦闘が続き、天津でも7月29日に戦闘が始まります*7。天津で市街戦に窮した日本軍は天津に対する空爆を行い危機を脱します。この日本軍の空襲によって復旦大学(1937/7/29)や南開大学(1937/7/30)が破壊され、日本は国際的な非難を浴びることになります。

通州事件(1937/7/29-30)

日本の傀儡政権であった冀東防共自治政府支配下にあった通州と順義で、冀東政府下の保安隊が反乱を起こします。天津攻撃とほぼ同時に起こされたこの反乱は攻撃としては残留日本軍を殲滅できずに終わった失敗であり、7月30日未明までに反乱部隊は通州から撤退しています。その際、日本人・朝鮮人の民間人が犠牲になりました。詳細は「通州事件に関する簡単な説明」などに記載しています。

北京攻撃前後での日本軍による敗残兵虐殺や都市爆撃に対して非難されることを恐れた日本軍・政府は、この通州事件を政治的に利用するよう8月2日に動き始めています(通州事件の政治利用の始まり )。

通州事件プロパガンダの影響(上海)

被害を誇張して大々的に“中国軍の残虐性”を訴えるプロパガンダの影響はまず、中国在住日本人に現れました。上海に住む日本人は中国人を蔑視してきたことを忘れ去り、自らが被害者になる恐怖に怯え、日本軍が派遣されることを望みました。
租界以外の上海を統治する中国上海市政府と上海警備司令(張治中)は華北での日本侵略に危機感を抱き、日本軍の上海侵攻に備えることになります。上海租界付近から長江沿岸にかけて1932年の第一次上海事変の休戦協定によって定められた非武装地帯があり、中国側は軍隊ではなく保安隊をそこに配備していました。上海警備司令はここに正規軍の配置を開始し、これに対して日本側は抗議します。しかし、上海租界を支配する欧米各国は日本側に同調しませんでした。

非武装地帯の解釈の違い

1932年の停戦協定で非武装地帯が設定されたのは、日中両軍を引き離し戦闘が惹起しないよう予防するためでした。したがって協定には戦闘が終わった後も永久に非武装化するという意味はありません。非武装地帯とされた地域は依然として中国主権下にある地域であり、未来永劫軍隊配備を制限されるような性質の協定ではなかったのです。実際問題として南京から杭州中国軍を鉄道輸送するに際し、非武装地帯を通過せざるを得ません。非武装地帯へは未来永劫中国軍が進入してはならないとする日本側の解釈では、非武装地帯に積極的に軍隊を配備するでもなくただ輸送のために通過するだけでも協定違反となりえます。
しかも、それらの軍隊輸送は中共軍討伐のための国民政府軍を輸送するためのもので、共産主義の脅威を主張している日本側が中共討伐の妨害をするのは、特に欧米租界の当事者からすれば理解しがたい要求だったわけです。
日本側の中国に対する“協定違反”の追及は恣意的なものであり、欧米租界当局からも支持を得られませんでした。中国側は軍隊輸送や陣地構築などは行いましたが、これ見よがしな正規軍の駐留は行わずまず穏健な態度をとっています。盧溝橋事件勃発による華北武力侵略が開始されて始めて、中国側は正規軍の配備を始めました。
これに対して日本政府による通州事件プロパガンダが功を奏し(?)、上海在住日本人らが恐慌に陥ったわけです。
中国側にすれば、第一次上海事変(1932年)の経験から日本軍(陸軍)が上陸してくれば、対抗できないという思いがあり、それ以前に上海駐留の日本軍(海軍陸戦隊)を殲滅しなければという考えがありました。特に警備司令の張治中には、第一次上海事変の際に第5軍軍長として第19路軍と共に日本軍と戦い敗れた苦い経験があります。日本陸軍上陸前に速戦即決を望んだのも当然で、張治中は蒋介石に先制攻撃の許可を求めています(蒋介石は拒絶した)。

上海の状況

1937年8月、上海市街(租界外)は中国保安隊の警備が厳しくなり、要所に陣地が築かれ、検問が行われるようになります。上海に駐留している日本海軍陸戦隊は、当然ながら現地での諜報任務も抱えていますが、行動が検問などによって制約されてしまいます。一方で、日本海軍としては上海方面の中国軍の動きが是非とも知りたい状況でした。自由飛行を認めさせている華北と違い、上海方面を勝手に飛行偵察するわけにはいかず、結果として地上から偵察する以外にありません。特に知りたいのは、中国空軍の動きでした。上海方面に日本軍が利用できる飛行場はなく、航空母艦か台湾基地からの長距離爆撃機を期待するしかない状況です。中国側は、上海近郊に虹橋飛行場と龍華飛行場の二つの飛行場を持っています。龍華飛行場は軍民共用でしたが、虹橋飛行場は軍専用の飛行場で民間人は容易に接近できない場所です。まして、華北侵略の激化に伴い上海での警備・警戒態勢も強化されている状況です。

華北情勢(1937年8月上旬)

日本軍は北京と天津を陥落させ、河北省の要所を7月末までに占領しました。しかしながら、これまでに華北で日本軍が戦ったのはあくまで地方政府の軍隊である第29軍です。地方政府軍隊を破って協定を押し付け国民政府中央に追認させるというのはこれまでもよくあったことであり、1937年7月末の時点では北京・天津を制圧したという既成事実をもって華北での日本利権を国民政府に追認させるという希望が(日本側の勝手な希望ではありますが)ありました。
しかし、8月になると河北省を占領している日本軍に国民政府中央の直系軍(湯恩伯)が北京北方の南口まで進出してきます。この中央軍との戦闘になれば日中全面戦争へ突入する可能性が高く、日本側は中央軍の動きに注目していました。中央軍が日本軍と戦火を交えてこなければ、日本軍が制圧した河北省の利権は事実上中央が追認したと判断できます。この時既に日本側には譲歩して戦火拡大を防ぐという意思はありませんでした。中央軍が南口まで進出してきたことで、8月9日、日本軍はこれを攻撃することを決定します。この日、上海でも事件が起こります。

長くなったので本筋の大山事件に入ることなく1回目終了。