通州事件とは、1937年7月29日から30日にかけて通州及び順義*1で起きた冀東防共自治政府所属保安隊の駐留日本軍に対する反乱に巻き込まれた日本人・朝鮮人民間人に対する虐殺事件を指します。中国側では、通州・順義での保安隊反乱全体を通州起義、あるいは「反正」と呼び、傀儡政府の軍隊であった冀東保安隊が正統な政府である国民政府側として決起したというニュアンスで語られます。
盧溝橋事件から3週間経過しており反乱そのものに計画性はあったと考えられますが、当日の経過を見る限り民間人虐殺は計画的ではなく無計画で衝動的に生じた事件と言えるでしょう。反乱のきっかけとして語られることの多い7月27日の日本軍機による保安隊誤爆事件ですが、計画実行を促す効果はあったと思われるものの誤爆事件だけが単独で動機となったわけではないでしょう。
一方で、右翼論者がよく言うように、計画的な日本人虐殺事件と語るのも事件経過から見て誤っていると言わざるをえません。まして虐殺事件の原因を民族性に求めて中国人差別を正当化するかのごとき論説は、民族差別以外の何者でもなく忌避されるべき主張です。
民間人虐殺の第一の責任は保安隊にありますが、日本当局側にも責任があります。冀東保安隊反乱全般について言えば、日本軍側の手際の悪さはかなり問題があると言えます。
通州、冀東政府を含む華北一帯での中国人住民の対日感情を著しく悪化させたのは、1931年の満州事変から華北分離工作へと続く一連の日本の侵略政策が原因です。現地の既存産業を著しく妨害した冀東密貿易や幣制改革の妨害など、住民の生活を直撃するような経済事案もありました。また、通州に集まった日本の民間人・軍属の中には大陸で一山当てようとしてやってきた性質の悪い者が多く、アヘン密売や女衒なども少なくありませんでした。中国住民の目に映る日本人とは、軍人でなければアヘン業者や売春宿の主人であったわけで対日感情が良くなる要因はほとんど皆無と言っていいでしょう。これらが冀東保安隊の反乱の動機となっていったのは想像に難くありません。
反乱直前(7月27日)の誤爆に関しては日本当局者が謝罪しているものの、中国側が事件を起こした場合に日本が要求する当事者の処罰などが誤爆した犯人に適用されるわけでもなく、感情的に治まるようなものだとは言えません。時間をかければ緩和できたかも知れませんが北平攻撃の真っ最中では望むべくもありませんでした。そのような状況を考慮すれば、日本当局者の対応は不十分だったとも言えます。また、この時点で冀東保安隊側に反乱の計画があったはずですが、その徴候に気付くこともできなかったのも失態と言えるでしょう。
反乱が起こって以降については、通州に駐留していた日本軍部隊の責任も少なくありません。数で優る保安隊相手に防戦したこと自体はそれなりに評価できます*2が、29日深夜には戦闘終了し通州城から保安隊が退去しているにも関わらず、居留民保護のための行動を取ったのは30日の夜が明けてからです。6時間以上も通州城内の居留民の様子を確かめようとしなかったのは、居留民保護の責任がある日本軍としては大問題と言えるでしょう。
さらに、通州城外の日本軍の動きもお粗末で、7月29日中に航空偵察で通州城内での異変に気付いているはずですが、地上からの救援命令は30日深夜1時(旅団命令)と朝8時(軍命令)になってからです。7月28日から30日にかけて、日本軍は北平・天津などで攻勢を取っており、ために通州での異変は放っておかれた感が強いと言えます。航空偵察での異変確認は7月29日12時、民間人虐殺は同日14時以降、日本軍主力は通州から眼と鼻の先の北平周辺に展開していました。航空偵察と同時に一個小隊程度の偵察隊派遣や少なくとも連絡員を派遣することくらいはできたでしょうし、その場合民間人が犠牲になる前に間に合った可能性もあります。ですが、実際に部隊派遣命令が出たのは、北平周辺の戦闘が収束した7月30日になってから、既に多くの居留民が殺害された後でした。しかも、実際に救援部隊が通州に到着したのは7月30日16時になってからです。その救援部隊の支那歩兵第2連隊は冀東保安隊を完全に取り逃がしています。冀東保安隊は北平北部で別の部隊によって捕捉され撃滅されました。
つまり、通州事件に際して日本軍は初動から後手後手にまわり、ろくな対応ができず、救援隊は遅れた挙句に保安隊を取り逃がすという失態を演じています。通州守備隊は自分たちだけ営舎に篭り、居留民をろくに守ることすらできませんでした。特務機関を置いていながら、冀東保安隊による大規模な反乱の予兆すら掴めないというのも日本軍の諜報能力の未熟を物語っています。
日本軍の対応で鮮やかだったのは、事件を“中国人部隊”の仕業として発表し、日本国内における批判の矛先を日本軍から中国軍へと反らした点と、それを大々的に宣伝に利用し、日中戦争に邁進する軍への国民の支持を得た手腕くらいです。
通州事件は形式上、冀東防共自治政府の失態であり冀東政府は1937年12月に日本政府に対して賠償を行っています。
なお、通州事件以前の華北において日本軍は既に民間人虐殺を繰り返しており、天津爆撃なども含めて国際的な非難を浴びています。日本は通州事件を対抗プロパガンダに利用することになります。このため、歴史的には、通州事件は日本が中国侵略を正当化するプロパガンダに利用した事件という流れで記憶されることになります。
戦後の戦犯裁判で南京大虐殺に代表される残虐行為を告発された日本側は、対抗言論として通州事件を再び利用することになります。独立後も戦記物では通州事件が頻繁に取り上げられ続け、日本社会の加害者意識の忘却と被害者意識の植え付けに利用されました。
そしても今もなお日本の極右勢力によってプロパガンダに利用されています。
通州事件に関してはいくつも記事を書いていますので、詳細に知りたい人は以下参考にしてください。