前回書いた経緯からわかるとおり通州事件における民間人殺害は、1937年7月29日早朝の冀東政府や日本軍・領事館警察関係者の監禁・殺傷事件と正午前ごろの一般民間人の監禁・殺傷事件の二つの様態があります。
第一の冀東政府・日本軍・領事館警察関係者の監禁・殺傷事件は、政府軍関係者の始末という反乱を成功させるためには避けられない行動と言え、家族は言わばその巻き添えになったと言えます。この過程では、冀東政府に派遣されていた日本人顧問や学生計4人、領事館警察の警官及びその家族、通州特務機関の機関員らが主に犠牲になっています。これらの施設は通州城内の北門付近と西大街路にありました。近水楼のあった西海子から見て真東に冀東政府のある北門、真南に西大街路があります。特務機関や領事館警察は西大街路にありました。
朝日軒、北平館という旅館*1も特務機関と同じく西大街路にあったようで*2、おそらくは日本人の政府・軍関係者が常宿としていたと推定されます。そのためか朝日軒、北平館も早朝に襲撃されています。
この第一の襲撃事件については、どちらかと言えば冀東保安隊側の統制がとれていたようで、殺害対象は軍・警察・政府関係者に絞られています。例えば、領事館警察襲撃では、冀東保安隊と領事館警察が交戦したため、その巻き添えで殺された人もいますが、浜田巡査夫人は殺されることなく連行され監禁されています(後、脱出。なお浜田夫人の2人の子どもは戦闘の巻き添えで殺害されています。この件別途詳述)。監禁された際に他にも朝鮮人女性が20名ほどいたと証言していますが、おそらくは朝日軒、北平館と言った北門近くの旅館の女中か酌婦だと思われます。証言では、彼女らが泣き叫んだためか銃床で殴られると言った乱暴な扱いであったことはわかりますが、浜田夫人にはそのような扱いがないことから、騒ぎさえしなければ特に暴行されずにすむ程度の監禁だったと言えます。
第二の様態が、正午前(9〜12時くらいか)からの日本人・朝鮮人居留民の拘束・連行後の殺害で、イメージとしての通州事件での日本人虐殺にもっとも当てはまる様態でしょう。学生隊や住民が参加した後と思われますが、日本軍守備隊制圧に手間取っていること、日本軍の偵察機が飛来したこと、特務機関制圧の際に数名の機関員を取り逃がしていることなども要因としてか、通州城内の日本人・朝鮮人居留民の摘発を開始しています。近水楼に篭っていた安藤記者らもこの際に拘束され、北門付近に連行されました。北門だったのは近水楼が北門に近かったためと思われます。居留民が虐殺された場所は北門以外に東門付近にもありますが、第一の襲撃の際、領事館警察の浜田巡査夫人は北門付近の建物に連行されていることから、第一の襲撃の時点では東門付近を監禁場所として利用していなかったと推定され、東門付近は第二の襲撃の際に西大街の他、東大街、南大街などの繁華街の居留民の連行先に利用したものと思われます。この第二の襲撃事件については統制があまりとれていないようで、連行の際に略奪や暴行、場合によってはその場での殺害も行われていたと思われます。日本人の捜索についても統制がとれていたとは言いがたく、安藤記者らがいた近水楼は何度か保安隊員がやってきたり帰ったりと、行動に一貫性がありません。このことから軍政府関係以外の一般日本人・朝鮮人居留民について冀東保安隊が当初から拘束・殺害を計画していたとは考えにくく、途中参加した学生隊や加担住民らの思いつきによる実行であろうと考えられます。
犠牲者数
通州事件の犠牲者数は明確になっているようで実はそうでもありません。事件直後に日本軍が通州を制圧し、詳細な調査ができたはずで、しかも人数も南京事件のように万単位ではなくせいぜい200人超であるにも関らず、諸説あるのが現状です。
例えば、日本総領事館警察通州分署の調査として、日本人208人中114人死亡、朝鮮人213人中111人死亡、計421人中225人死亡とされています。このうち死体不明が16人あり、この調査時点で確認された死体は209人ということになります。
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/tuusyuu00.htm
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/tuusyuu20.htm
しかし、戦後に防衛庁が作成した戦史叢書「支那事変陸軍作戦1」では「在留邦人385名のうち223名が虐殺」とされています。他にも260人説もあります。犠牲者数225人と223人の差はあるいは特務機関のうち正規の軍人であった細木繁中佐と甲斐厚少佐の2名を除いたものかも知れませんが、在留邦人数の差については全くわかりません。もともと通州にいた在留邦人の他に、北平から避難してきた者も70人ほどいたという証言もあり*3、事件発生当時の日本人・朝鮮人住民数すら把握するのは困難です。
(南京事件についての話になりますが、通州事件前後に日本軍が支配していたにもかかわらず高々400人程度の住民数の把握すら困難なのですから、南京事件発生直前の人口について軽々しく断言できないと考えるのが普通でしょうね。)
とりあえず、ここでは日本人・朝鮮人犠牲者数を230人程度として検討します。
殺害現場別犠牲者数
次に殺害現場はどこだったのかを検証してみます。
証言などから判断できる殺害場所は、通州城北門付近、通州城東門付近、近水楼(西海子公園付近)、特務機関(西大街路)、領事館警察(西大街路)の5箇所で、その他に西大街路、北大街路、東大街路、南大街路などの大通り沿いや胡同などの裏通りにある日本人・朝鮮人の商店・住宅などがあります。
大規模な虐殺現場は、通州城北門付近と通州城東門付近の2箇所です。
安藤記者の証言によると北門付近では70人程度が殺されており、緒方氏証言によると東門付近に約60人の死体が投棄された池と29人が投棄された池があったそうです。この2箇所合計で160人程度の犠牲者が出ています。通州事件の日本朝鮮民間人犠牲者総数は230人程度ですからほぼ3分の2が、東門・北門付近で殺害されたことになります。
冀東政府では、日本人顧問3人と拓殖大学学生の亀井実氏の4人が反乱初期に殺害され*4、少し遅れて冀東政府にやってきた特務機関長の細木繁中佐も殺害されています*5。
保安総隊顧問の村尾昌彦大尉は自宅で、保安隊長の従卒により殺害されています*6。
特務機関では補佐官の甲斐厚少佐の他、軍属の田中氏、島田氏、今岡氏、近藤氏が襲撃直後に戦死、庶務係の西村氏、南沢氏が午前9時前後に戦死し、計7人が殺害されています。特務機関内に宿泊していた民間人の緒方一策氏の他、庶務係の白河氏、給仕の中末氏、田島氏ら4人は脱出し難を逃れました*7。
特務機関には上記11人とは別に浜口良二という機関員がいたはずですが、特務機関襲撃に関する緒方氏の証言ではこの名前は見当たりません。しかし、浜口茂子氏の証言では、30日に特務機関に訪れたところ、土間で浜口良二の屍体を見つけたとなっています(この他に浜口良二の妹文子ら数名が殺されたとあるが、場所などの詳細は不明。浜口夫人と安田夫人は助かったとのこと)*8。
また、寺平氏の「盧溝橋事件」では特務機関にいた少年給仕の西村氏、杉原氏(両名とも戦死)の他、島田福太郎氏、緒方次吉氏、村尾正直氏、今岡逸治氏など軍属も戦死、平沢氏、鎌田氏らが生き残ったとあり、実際に何人が特務機関に居て何人が犠牲となったのか、証言によってまちまちです。
三名の証言者が名前を誤認していないと仮定して、重複を避けて記述すると、甲斐厚少佐、田中氏、島田福太郎氏、今岡逸治氏、近藤氏、西村氏、南沢氏、白河氏、中末氏、田島氏、緒方一策氏、浜口良二氏、西村氏、杉原氏、緒方次吉氏、村尾正直氏、平沢氏、鎌田氏など最低18人が襲撃当時、特務機関にいたことになります。
そのうち殺害されたのは、12人ということになります。しかし、どうもこの三者の証言は微妙にかみあっていないように思えます(情報室に火をつけるくだりや特務機関は全滅したという表現など)。
領事館警察関連では、浜田末喜巡査夫人の浜田静江氏の証言があります*9。巡査部長日野誠直と石島戸三郎ら5人の巡査及びその家族が犠牲になったとあり*10、犠牲者数は一家族4人程度として20人程度と思われます。
以上、冀東政府・保安隊関係5人、特務機関関係約12人、領事館警察関連約20人で、合計40人程度の犠牲者を出した事になります。
公的機関以外で最も有名な虐殺場所としては、近水楼(錦水楼との記述もあり)があります。安藤記者の証言では、事件発生当時の宿泊客は19人、連行された際に女中5〜6人の死体を見ています。極めて信憑性が低いのですが、後の東京裁判で、日本の開戦責任回避のための萱嶋高(事件当時、支那駐屯歩兵第2連隊長)証言では帳場配膳室にも3人の死体があったということで、近水楼全体で10人程度の犠牲者を出していると見られます*11。
通州事件犠牲者総数の約230人中、160人が北門・東門、40人が公的機関で、10人が近水楼で殺害されています。では、それ以外で殺害された人数は、というと約20人程度です。この20人程度が個別の殺害事例になると考えられますが、これは人数的にネット上で言われているような殺害件数よりも少ない数です。
例えば、上記萱嶋証言では「旭軒とか云う飲食店を見ました。そこには40から17,8歳までの女7,8人は皆強姦され射殺されておりました。」*12とあり、同じく東京裁判での桜井文雄(事件当時、支那駐屯歩兵第2連隊小隊長)証言で「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた」とあるのと考えると、犠牲者の人数の勘定が明らかに合わない、と言えるでしょう。
考察
200人程度という人数は、個々の殺害事件をある程度正確に把握できる数です。しかしながら、通州事件関連の個々の日本側証言を積み上げていくと全体数と矛盾が生じることから、個々の証言には少なからず誇張があることがわかります。
ただし、事件の生存者などがある程度、被害の実態を誇張することはよくあること、かつやむをえないことでしょう。また、殺し方が残酷でなかったからと言って、被害者にとって慰めになるわけでもありません。被害者証言には、それなりの共感を持って接するべきです。しかし、通州事件報道の場合、初期の被害者証言よりむしろ時間が経つごとに残酷な表現が増えていくと言った被害者心理による誇張とは思えない部分が見受けられます。
また、殺し方が残酷であることを中国人の特性などと、民族差別の根拠に利用するなどレイシストの跳梁がネット上では目立ちますし、裁判でも死刑か否かの判断基準の一つに殺害方法の残酷さも考慮されることから、実際に戦前・戦中報道のように残酷な殺害方法だったかと考える事には意味があると思います。
これら証言の矛盾は、人数以外の殺害方法など詳細部分についても見られます。それらについては別途取り上げる予定です。
*1:あるいは、いわゆるカフェーなどの売春宿かも知れません
*2:安藤利男記者の証言
*3:緒方一策氏証言「北平危険と見てわざわざ通州に安全を求めて来たものすら七十名近くあった(略)」
*5:寺平忠輔「盧溝橋事件」冀東政府建設庁長王厦材の証言
*6:東日大毎特電 1937年7月31日「鬼畜も及ばぬ残虐」にある村尾昌彦大尉夫人の証言
*7:参考:http://yamakarashi.iza.ne.jp/blog/entry/660490/
*8:寺平忠輔「盧溝橋事件」
*9:寺平忠輔「盧溝橋事件」P380
*11:萱嶋高 元陸軍中将の証言「錦水楼という旅館は凄惨でありました。同所は危険を感じた在通州日本人が集まった場所でありましたものの如く、大量虐殺を受けております。女主人や女中は数珠繋ぎにされ、手足を縛られたまま強姦され遂に斬首されたという事でした。次に(錦水楼の)帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり、或いはうつぶし或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようでありました。」http://www10.plala.or.jp/yosioka/syougen.htm なお、萱嶋高自身は通州到着時刻から推定すると、近水楼の死体の様子を実際に見たとは考えにくく、上記引用部分も近水楼と北門付近の虐殺を混同しているものと思われます。
*12:この証言自体はかなり怪しいものです。