通州事件に関する初期の日本側報道・証言(村尾昌彦大尉夫人の場合)

村尾昌彦大尉夫人の1937年7月31日時点(事件2日後)の証言が、東日大毎特電として発信されています*1

鬼畜も及ばぬ残虐
東日大毎特電 1937年7月31日

 通州反乱保安総隊顧問、村尾昌彦大尉夫人が頭に包帯をして顔その他に傷を受け、30日深夜、命からがら冀東政府長官秘書・孫錯氏夫人 (日本人) とともに北平交民巷に逃げ込んだ。身震いが止まず反乱隊の残虐ぶりをポツリポツリと語った。
 「保安隊が反乱したので、在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち、29日の午前2時頃、守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーッと近水楼や特務機関の前に殺到して来て、10分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。

 近水楼の前は日本人の死体が山のように転がっています。子供を抱えた母が三人とも死んでいるなど、二た目と見られない惨状でした。私達はこの時家にいました。29日午前2時頃、保安隊長の従卒が迎えに来たので洋服に着かえようとしたところ、その従卒がいきなり主人に向ってピストルを一発射ち、主人は胸を押え「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。
 私は台所の方に出て行って隠れていると、従卒がそこらにあるもの片っ端から万年筆までとって表へ行きました。そのうちに外出していたうちのボーイが帰って来て、外は危ないというので、押入の上段の布団の中にもぐっていたところ、さっきの従卒が十人ばかりの保安隊員を連れて家探しをして押入れの下まで探したが、上にいた私には気づかず九死に一生を得ました。

 家の中には主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残っていました。それを主人の唯一の思い出の品として私の支那鞄の底に入れ、主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈り、ボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書・孫一珊夫人の所へ飛び込み30日朝まで隠れていましたが、日本人は皆殺しにしてやるという声が聞え、いよいよ危険が迫ったので、孫夫人と二人で支那人になり済まして双橋まで歩きやっとそこから驢馬に乗ったが、日本人か朝鮮人らしいと感づかれて驢馬曳などに叩かれましたが絶対に支那人だといい張って、やっと30日午、朝陽門まで辿りつきましたが、門がしまっていたので永定門に廻りやっと入り、30日夜11時日本警察署に入ることが出来ました。
 冀東銀行の顧問・三島恒彦氏が近水楼で殺され、冀東政府の島田宣伝主任等も虐殺されたらしく、近水楼にいた日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港惨劇も丁度このような恐ろしさであったろうと思います。

 反乱した張隊長は毎日家に遊びに来て「好朋友、好朋友」などといい非常に主人と仲良しだったのに、こんなことになるとは支那人ほど信じ難い恐ろしい人間はないでしょう。三人の遺骸は必ず私の手で取りに行きます。」

 なお危険地区を突破した夫の唯一の形見を肌身離さず持ち帰った沈着なこの夫人の行動は避難邦人の賞賛と感激を受けて、同夫人に対する同情は翕然と集まっている。
上海大毎特電. 『鬼畜も及ばぬ残虐』, 1937年7月31日; 皇徳奉賛会出版部 (宮居康太郎・編). 『支那事変戦史 後編 - 各社特派員決死の筆陣』, 1937年12月18日刊

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村尾夫人は夫である村尾昌彦大尉が冀東保安隊顧問であったことから29日の冀東保安隊反乱後、すぐに襲撃を受けています。村尾顧問は29日午前2時ごろ保安隊長の従卒に射殺されています。この最初の襲撃の際、村尾夫人は隠れていたため助かっていますが、もし冀東保安隊が通州の日本人を全て虐殺することを目的としていたならこれは奇妙なことです。村尾顧問と従卒は当然ながら顔見知りですから、襲撃当時屋内に村尾夫人もいたことを認識していたはずです。しかし従卒は金目の物を物色しただけで一度立ち去り、保安隊員を連れて再度やってきた時も押入れの中に隠れていた*2村尾夫人を見逃しています。おそらく、当初から村尾顧問を殺害することだけが目的で、村尾夫人をどうこうするつもりはなかったのでしょう。
従卒らの略奪も個人的な余禄としておこなったらしく、徹底したものではありませんでした。
「家の中には主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残っていました。それを主人の唯一の思い出の品として私の支那鞄の底に入れ」
このように村尾顧問の勲章も、村尾夫人の支那鞄もそのまま残されていたわけです。
また、村尾顧問の遺体にことさら損壊が加えられた様子もこの記事からは伺えません。
この二度の襲撃後、村尾夫人は冀東政府長官秘書孫錯*3氏の夫人孫一珊(日本人)氏の下に逃れ翌30日朝まで隠れています。記事では30日朝に「日本人は皆殺しにしてやるという声が聞え」たとありますが、30日朝の時点では冀東保安隊は既に通州を去っていますから、記憶違いでしょう。いずれにせよ、30日朝以降、村尾夫人と孫夫人は二人とも中国人に成りすまして通州から北平に逃れています。北平の日本警察に到着したのは30日午後11時でした。

明らかな虚構の部分

「保安隊が反乱したので、在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち、29日の午前2時頃、守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーッと近水楼や特務機関の前に殺到して来て、10分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。
 近水楼の前は日本人の死体が山のように転がっています。子供を抱えた母が三人とも死んでいるなど、二た目と見られない惨状でした。

安藤記者の証言から近水楼が襲撃され死者を出したのは午前10〜12時ごろと判明しています。午前2時に近水楼に殺到したとか、近水楼の前は日本人の死体が山のように転がっているなどは明らかな間違いです。そもそも村尾夫人は襲撃当初からほとんど屋内に隠れていましたから、近水楼の様子を見たとすれば、孫一珊氏のところに移動する途上でしかありえません。近水楼は宅地とは大きな池を挟んだ対岸にあります。しかも保安隊撤退後の捜索における証言などから、近水楼の殺害は屋内、帳場で行われており、外から死体を確認することはできませんでしたし、そもそも近水楼で「子供を抱えた母が三人とも死んでいる」という証言は他になく、整合性がありません。それに保安隊に見つからないように移動しているはずの村尾夫人が近水楼の様子をわざわざ見に行ったとは極めて考えにくく、おそらくこれらの近水楼や特務機関情報は、北平で記者や軍関係者から聞いたものでしょう。
この記事には、噂や伝聞の情報が証言の中に紛れ込んでいると見るべきでしょう。なお、この当時は、新聞記者らが知りえない事件の細部について記者が創作することが頻繁にありました。

後日の報道に見られる猟奇性は伺えない

事件直後の報道・証言の特徴でもありますが、後に通州事件の猟奇性などを強調した記事と違い、殊更残虐な殺され方や猟奇的な死体損壊、強姦などの記述は見受けられません。村尾夫人が見た殺人も夫の村尾顧問に対する射殺の一件のみ、しかも死体にたいする陵辱も、村尾夫人に対する暴行もありません。「村尾昌彦大尉夫人が頭に包帯をして顔その他に傷を受け」たのは、通州脱出後「日本人か朝鮮人らしいと感づかれて驢馬曳などに叩かれました」ためでしょう。

*1:報道されたのはもう少しと思われる

*2:普通の日本家屋の押入れなら、その気になって探されれば簡単に見つかるはずです

*3:同名の満州国官吏がおり、同一人物かも知れません。アジア歴史史料センター【 レファレンスコード 】 C01002824000「 1 駐日代表経歴の件」に満州国の駐日代表部属官として、孫錯の名前がある。本籍・関東州旅順。1932年当時34歳。旅順中学、北平朝陽大学、大連満州法政学院卒業。満州国憲兵隊教練所日本語教官などを経て、1932年9月16日、満州国駐日代表部属官に任じられる。