歴史修正主義者の通州事件認識

通州事件に関しては以前、いろいろ調べた上で巷間言われているような猟奇的な集団虐殺ではなく、南京事件をはじめとする他の虐殺事件と同様の軍民虐殺であることを記事にしました。通州事件の歴史的な意義は、日本が対中全面戦争に突入するにあたっての国内向け反中プロパガンダに利用されたという点くらいで、虐殺事件そのものとしては特筆して取り上げる価値はあまりありません。
もし、通州事件を虐殺事件として歴史教育で取り上げるなら、平頂山事件や南京事件はもちろん、陽高事件、廠窖虐殺事件に至るまで取り上げなければバランス感覚に欠けると言えます。

バランス感覚に欠けた歴史修正主義者にとっては、通州事件は中国を非難するための便利な道具でしかありませんから特筆して誇張して何度も何度も叩きます。
一方で、真面目な研究者にとっては、通州事件を詳細に調べる動機があまりなく*1、結果としてネット上では適当な通州事件プロパガンダが広く流布されっぱなしになっています。

通州事件は元々、事件直後から大日本帝国によってプロパガンダに利用され、戦後も戦犯容疑者や右翼らによって日本の戦争責任否定のためのプロパガンダに利用されてきた経緯があります。プロパガンダ利用歴という点で言えば、政治的に利用され始めたのがせいぜい1970年代以降*2という南京事件とは格が違います。
なお、プロパガンダに利用されたからと言って、事件そのものが無かったという話にはなりません。通州事件南京事件も実態としての事件は、間違いなくありました。

ただ、ネット上でそれを流布している人たちはプロパガンダだけが目的で事件そのものをちゃんと調べようと言う意識には欠けているようです。
多少なりとも誇張されている部分、伝言ゲームで間違っていると思われる部分、明らかに捏造と思われる部分を指摘しておくことは、それなりに意味のあることでしょう。

支那人が避けて通る恥部 通州事件」なるサイトの記述をつっこむ

昭和12(1937)年7月29日、北京の東方は、冀東(きとう)防共自治政府の首都・通州(下写真は当時の通州)で「大虐殺」がなされました。いわゆる「通州事件」と呼ばれるものです。「南京大虐殺」が大々的に取り上げられるのとは反対に、何故か、意図的に年表からも削除されている事が多く、教科書にも全く取り上げられる事の無い、この「通州事件」について、今回は書いてみたいと思います。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/tsushu.html

通州事件は歴史的にはそれほど重要な事件ではありませんから、年表や教科書に記載されないのは不思議ではありません。南京事件が年表や教科書に載るのは、日本軍が中国や東アジアの占領地で犯した虐殺事件が多数あり、それを代表する象徴的な事件だからと言えます。実際、南京事件以外の日本軍による虐殺事件は事件の数から言えばほとんど載っていないのが普通です。
また、通州事件プロパガンダに利用する人に特徴的に見られる傾向として、「何故か、意図的に年表からも削除されている」などと「意図的に」というのを強調するパターンがあります。当然ながら、(本来載って当然の事件なのに、それを隠したい何者かによって削除された)的なニュアンスを含んでおり、陰謀論の味付けをすることで興味を引いているわけです。

通州事件」 ── 又の名を「通州大虐殺」とも呼ばれるこの事件は、「廬溝橋事件」の3週間後、起こりました。当時、通州には、「廬溝橋事件」の余波で避難していた婦女子や朝鮮人(当時は日本国籍だった)を含む日本人居留民、天津特務機関長・細木繁中佐ら軍人等200余人が住んでいました。通州には、日本軍の守備隊も駐屯していたのですが、たまたま、主力が南苑攻撃の為、町を離れ、僅か110名の留守部隊しか残っていなかった所へ、支那保安隊千数百名が襲撃を掛けたのです。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/tsushu.html

「200余人が住んでいました」というのは誤りです。住んでいた日本人・朝鮮人は400人以上いました。また、やはり通州事件プロパガンダに利用する人に特徴的に見られる傾向ですが、冀東政府の保安隊を「支那保安隊」と書いており、蒋介石の国民政府軍との区別が曖昧です。この手の人たちはやたら「支那」という言葉を使いたがりますが、歴史の叙述においては曖昧なことこの上ない表現です。冀東政府保安隊、あるいは冀東保安隊と表現するべきでしょう。
さらに、冀東政府自体が日本の傀儡政権だったことは外せない事実ですが、ここでは全く触れられていません。


通州を襲撃した支那保安隊は、多勢にものを言わせて日本軍守備隊を全滅させ、余勢を駆って、何とあろう事か、日本人居留民をも「標的」にしたのです。支那保安隊は、日本人居留民を通州城内に全員集め、城門を閉めた上で(要は城外へ逃げられない様にして)、日本人居留民の住宅一軒々々に火を放ち、女性には暴行を加えた上で局部に丸太を突き刺す等して殺害、子供は両手・両足を切断し、男性には首に縄を巻き付けた上で引き回す等、「残虐」の限りを尽くしたのです。前回のコラム(『83.「日本軍国主義」の象徴 ── 「南京大虐殺」等あり得ない!!』)で指摘した「屠城」。正にその「屠城」が現実のものとして、支那保安隊によって繰り広げられた訳です。

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「日本軍守備隊を全滅させ」は事実に反します。日本軍守備隊は全滅していません。「支那保安隊は、日本人居留民を通州城内に全員集め」も事実に反します。冀東保安隊が反乱を起こした時点で城内に居住していた日本人居留民が閉じ込められたというのが正確でしょう。
「日本人居留民の住宅一軒々々に火を放ち」も誤りです。日本軍守備隊や特務機関、領事館警察との戦闘で出火したのは事実ですが、人口数万の通州城内でわずか400人しかいない日本人の住宅に火をつければ、当然隣の中国人の住宅にも被害が及びます。わざわざ放火する必要性がありません。

「女性には暴行を加えた上で局部に丸太を突き刺す等して殺害」事件当初の報道ではそのような事実は出ていません。村尾昌彦大尉夫人のように一度身柄を拘束されながら特に暴行を受けていない人もいます。「子供は両手・両足を切断し」についても、そのような報道は見当たりません。「男性には首に縄を巻き付けた上で引き回す等」これも当時の報道には見当たりません。

そもそも通州事件の全期間(といっても7月29日から30日にかけてのせいぜい30時間程度の間)に渡って、冀東保安隊は通州城内の兵舎に立て篭もる日本軍守備隊と戦闘中でした。日本人居留民を時間をかけていたぶってる余裕があったとは考えにくい状況です。

「廬溝橋事件」は、日本軍と支那・国民党軍と言う軍隊同士による軍事衝突でした。しかし、「通州事件」は、支那保安隊による日本人居留民 ── 「民間人」への殺戮行為でした。これは、明らかに国際法違反です。しかも、その殺害方法が、正に「屠城」そのものであり、残虐極まりないものであった事も重要です。支那は現在も、ありもしなかった「南京大虐殺」を持ち出しますが、こと「通州事件」については、自らの過ちであるにも関わらず、謝罪も補償も一向にする気がありません。支那が「正しい歴史認識」と言うのであるならば、虚構の「南京大虐殺」を主張する前に、まず「通州事件」における日本人居留民虐殺について明確に謝罪すべきです。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/tsushu.html

通州事件が冀東保安隊による民間人虐殺事件であることは事実ですが、厳密に成文法を考慮すると「明らかに国際法違反」と言えるかどうかは微妙です。少なくとも南京事件否定派による南京事件に対する国際法の適用基準からすると、かなり難しいと言えるでしょう。何しろ、冀東保安隊が所属する冀東政府は、蒋介石の国民政府とは別個の組織です。通州事件は冀東政府保安隊による冀東政府に対する反乱事件ですから、冀東政府の法に従って反乱罪・殺人罪などで裁くべき事案であって国際法が関与する余地がありません。スジとしては、日本政府が日本人居留民の被害に対して、冀東政府に責任を問い謝罪と賠償をさせることになります。そしてそれは実行されています*3

「殺害方法が、正に「屠城」そのものであり、残虐極まりないものであった」これについては、日本側報道の誇張の色が強く、通州事件だけが突出して「残虐極まりない」と言える根拠はありません。

支那は現在も、ありもしなかった「南京大虐殺」を持ち出します」これはもう、お郷が知れるというか、南京事件否定論者というだけで相手にする価値もありません。南京事件を否定する論法を通州事件に適用すれば、簡単に通州事件も捏造だと言い張ることができてしまいます。

「こと「通州事件」については、自らの過ちであるにも関わらず、謝罪も補償も一向にする気がありません」については、冀東政府が謝罪・賠償しています。現・中華人民共和国政府に対して、通州事件被害者に対する道義的謝罪を求めるならともかく*4補償となると、一体どういう法的根拠に基づくのかさっぱりわかりません。
南京事件被害者のように、今もなお日本人大学教授から偽者呼ばわりされるというセカンドレイプ被害と同様の被害が、通州事件被害者に起きているわけでもありません。


そして、もう一つ、言いたい事があります。「廬溝橋事件」発生後、日本は、現地解決・戦線不拡大方針を表明し、国民党軍との間に停戦協定が成立していました。要は、日本としては支那とこれ以上、事を構えたくはない。日本は支那との全面戦争は欲していない。だからこそ、事態をなるべく穏便に済ませたいと思っていたのです。しかし、支那は日本側のそんな期待を裏切って、「通州事件」を起こしました。当然ながら、日本の世論は「支那を撃つべし!!」と激怒沸騰しました。この時も日本軍は隠忍自重し、本格的な戦端を開こうとはしませんでした。やはり、支那との全面戦争を欲していなかったからです。しかし支那は、8月13日、上海租界の日本人居留民を警備・保護する目的で駐屯していた日本海軍陸戦隊に対して、国民党正規軍10個師団(20万人)もの大兵力を配置して、攻撃してきたのです(第二次上海事変)。海軍陸戦隊は、警備を主任務とする小規模軍隊です。その海軍陸戦隊が国民党正規軍(本格的な戦闘をする軍隊)10個師団を相手に、到底持ち堪(こた)える訳がありません。「帝國臣民ヲ保護スヘシ」として、上海租界の日本人居留民「保護」を任務としていた海軍陸戦隊は、遂に陸軍に対して派兵を要請。8月15日、蒋介石が「対日抗戦総動員令」を発令した同日、日本海軍機が南京を空爆し、遂に8年もの長期に及ぶ全面戦争 ── 「支那事変」(日華事変・日中戦争)へと発展していったのです。

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「日本は、現地解決・戦線不拡大方針を表明」・・・現地日本軍は、度々高圧的態度、挑発的行為を行っていますから、現地での事件収拾に失敗した原因を中国側だけに求めるのは不当でしょう。
「国民党軍との間に停戦協定が成立」・・・盧溝橋事件以降の停戦協定は、国民党軍ではなく冀察政務委員会の第29軍との間で成立したと思いますが。
支那は日本側のそんな期待を裏切って、「通州事件」を起こしました。」・・・またしても「支那」表現のため、通州事件の主体が冀東保安隊なのか、中国国民政府なのか曖昧になっています。ちなみに「日本側のそんな期待」というのも、日本側に都合のいい一方的な条件を中国が唯々諾々と呑むことを期待していたに過ぎませんから、日本側が全面戦争は欲していない、などと言うのは通用しません。本当に全面戦争を欲していないのなら日本軍が兵を少なくとも長城線まで引くべきでした。

第二次上海事変について「海軍陸戦隊は、警備を主任務とする小規模軍隊」とだけ述べるのはおかしな話で、日本側は中国が保有していない大型軍艦を数十隻上海付近に展開しています。それに海軍陸戦隊にしても8月13日時点で既に3000人規模には増強されていましたし、同時期、対する中国軍は「国民党正規軍10個師団(20万人)もの大兵力」を上海付近に配置するには及んでいません。この時期の中国軍はせいぜい5万人程度で、半数は長江沿岸の防衛などにまわっていますから、実態としては「中国軍歩兵3万人」対「日本海軍陸戦隊3000人+海軍艦艇20隻+航空隊」と言えます。機械力を加味すれば、中国側の圧倒的有利とまでは言えません。


もし、「廬溝橋事件」後の停戦協定が守られていたなら(支那側は幾度と無く協定違反を繰り返した)、「通州事件」が起きなかったなら(あの事件で日本の世論を硬化させた)、そして、「第二次上海事変」による攻撃が無かったなら(全面戦争に発展する切っ掛けを作った)、日本と支那の全面戦争は起きなかったのかも知れません。昔から、日本には「喧嘩両成敗」と言う言葉があります。喧嘩をした同士双方に非があるのだと言う意味です。そう言う意味では、蒋介石(第二次上海事変で先制攻撃)・毛沢東(廬溝橋事件で日本軍に発砲)による「挑発」が、「支那事変」を招いた共言え、闇雲に「日本軍国主義」を糾弾して止まない支那にも「支那事変」における「戦争責任」があると言う事です。(了)

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支那側は幾度と無く協定違反を繰り返した」と言う点について、日本側が協定違反とみなしている中国側の行為の多くは中国側だけの責任とは言えません。例えば郎坊事件ですが、中国側支配地区に電話線修理の名目で一個中隊を派遣し、駅に駐屯させようというのは挑発行為とみなしえますし、広安門事件にしてもあの時期に北平城内に大量の日本軍を追加配備しなければならない理由があったとは言えません*5。一方で日本軍側は北平から数百キロ南方まで軍用機を飛ばして偵察・挑発行為を行い、中国の軍用列車を射撃などして中国軍兵数名を殺害しています*6


蒋介石(第二次上海事変で先制攻撃)・毛沢東(廬溝橋事件で日本軍に発砲)による「挑発」が、「支那事変」を招いた」8月13日時点では華北で中国中央軍と日本軍が戦火を交えていますので、上海方面での先制攻撃だけをもって中国側が仕掛けた、と主張するのは無理があります。また、盧溝橋事件を「毛沢東による挑発」とみなすのは、中国共産党発砲説ですが、歴史学上は信頼度の低い俗説に過ぎません。

ついでに「日本には「喧嘩両成敗」と言う言葉があります」という台詞から、中国側からの挑発・先制攻撃だったとしても、日本側にも責任がある、としめるのかと思いきや、「闇雲に「日本軍国主義」を糾弾して止まない支那にも「支那事変」における「戦争責任」がある」と、全ての責任を中国側に押し付けてしめる*7という驚愕のオチなのが、衝撃的でした。



支那人が避けて通る恥部 通州事件」というタイトルからも明白ですが、中国人に対する蔑視が露骨なレイシストによる文章で、事実について冷静に考察した様子は伺えません。

*1:日本の傀儡政権の軍隊とは言え、その反乱によって日本人居留民が虐殺されたこと自体は事実ですから、真面目な研究者には、それを否定する動機がありません。真面目じゃない歴史修正主義者が南京事件を否定しようとするのとは、この点で全く異なります。

*2:東京裁判で話題にはなっていますが、南京事件をネタに日本を誹謗するような論調は1960年代後半まではほとんどありません。

*3:冀東保安隊と国民政府が内通していた、との主張もありますが、国民政府が冀東保安隊に対して反乱を呼びかけたことは事実でも、日本人居留民を殺せと命じたのでない限り、国民政府の責任を問うのは困難です。

*4:その場合、南京事件以外の圧倒的な数の日本軍による中国人虐殺事件に対して日本政府が謝罪しなければならなくなるでしょうが。

*5:城外では日本軍が北平付近の中国軍を包囲する形で配備されつつあった時期で、かつ、城内は欧米各国の利権があり中国側も多くの部隊を置いてはいませんでした。

*6:中国領土内の自由飛行については、日本が中国に押し付けた協定上、辛うじて合法ですが、威嚇・射撃・殺傷となると国際法的にかなり問題のある行為です。

*7:少なくともこの文章中に日本側の責任に言及している箇所は一箇所もありません。