別宮暖朗氏の記述による通州事件

別宮暖朗氏も歴史修正主義者としてはそれなりに知られています。軍事関係の資料については数多くあたっているため、一部軍事クラスタでは人気があるようです。一方で利用する資料、あるいはその解釈が偏っているため、おかしな主張も数多くあります。
通州事件前後に関しては、以下の文章がネット上にありますが、中途半端に詳しい一方で中途半端に間違っているので、なんだかなー、な状態です。

通州事件
松井は攻撃の危機を宋哲元に伝えた。だが、27日1400、宋哲元はラジオで「第29軍は自衛護国のため、必死の努力をなし、南京の命に従いあるも、更に各界の指教を請う」と蒋介石に援兵を要求した。
第29路軍は、直ちに撤退を開始した。27日早朝までに主力である132師は南苑にある兵舎を引き払った。ただし、宋哲元は蒋介石への忠誠の証しとして、麾下の兵士に日本軍の兵站中心であった天津、塘沽、豊台と通州を急襲することを命じた。
日本の陸軍航空隊は28日早朝、無人となった南苑や西苑を空爆し、兵舎を灰燼に帰せしめた。これら兵舎は、西原借款によって、段祺瑞治世下の北洋軍閥支援の一環として建設されたものである。

http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/robo%20incident.html

通州事件前夜までの状況については、以前まとめたのでそれを参照してもらうとして、ここでは間違っている点を指摘します。「第29路軍は、直ちに撤退を開始した。27日早朝までに主力である132師は南苑にある兵舎を引き払った。」日本軍による北平南苑総攻撃(1937年7月28日)の際、南苑防衛の主力が第132師でなかったのは確かですが、第29軍*1が撤退したわけじゃありません。
「宋哲元は蒋介石への忠誠の証しとして、麾下の兵士に日本軍の兵站中心であった天津、塘沽、豊台と通州を急襲することを命じた。」ここは根拠のない別宮氏の主張ですね。天津、塘沽、豊台に関しては、宋哲元の第29軍麾下の部隊が配置されていましたが、通州には7月28日時点では第29軍麾下の部隊は存在しません*2。「通州を急襲することを命じた」のは一体どの部隊に命じたのか定かではなく、実際に通州を急襲した第29軍麾下の部隊は存在しません。
「日本の陸軍航空隊は28日早朝、無人となった南苑や西苑を空爆」も一体何を根拠としたのか不明ですが、南苑はかなりの戦闘が起こっていますので、事実に反します。

ただ、28日1100ごろ、復讐に燃える一木大隊清水中隊は、南苑を出て北平に向かう第29路軍副軍長冬凌閣、132師長趙登禹の馬列を待ち伏せし襲撃、この二人を戦死させた。

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別宮氏の記述をそのまま理解すると、宋哲元は南苑から部隊を撤退させたにも関らず、空爆を受けた上に副軍長、師長らが日本軍に待ち伏せされて殺害されたことになります。無抵抗で撤退中の中国軍の将軍をテロで殺したとしか解釈できません。
もちろん、実際には別宮氏の記述と異なり、南苑では大きな戦闘があり、その中で第29軍副軍長・佟麟閣と第132師長・趙登禹が戦死しています。ちなみに車で移動中に砲撃を受けて戦死していますので、「馬列」ではなく「車列」が正しいです。また時間は11時ではなく、午後1時という説があります。


その日夜半、第29路軍は天津を急襲した。急襲したのは騎兵部隊で、その数は5000に達した。しかし、騎兵による都市施設急襲はまず成功しない。一時支那駐屯軍本部は窮地に陥ったが、分駐を余儀なくされていた各部隊は29日終日戦い、30日に至り敵を撃退した。
塘沽附近でも28日から大沽方面から日本軍の軍用桟橋や装甲艇に射撃が加えられた。塘沽警備隊は出撃を決意し、塘沽駅を下車中であった野戦重砲第9連隊を大沽に向かわせた。29日、大沽に砲撃し30日に一帯を掃討した。

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天津を攻撃したのは、第38師第228団や独立第26旅第678団で別に騎兵部隊というわけではなかったはずです。あと、天津攻防戦では日本陸軍の航空隊が空襲で市民もろとも中国軍を蹴散らすという戦果(?)を挙げていますが、なぜそれに触れないのでしょうか。

ところが、29日1400ころ通州保安隊約3000人が突如兵変を起こし、冀東政府主席股汝耕を捕らえ、日本軍守備隊を攻撃するとともに特務機関及び日本人居留民を襲撃した。
このため特務機関員のほとんど全員が戦死し、在留邦人385名のうち223名が虐殺された。

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ここもよくわかりませんが、「29日1400ころ通州保安隊約3000人が突如兵変」って真昼間に反乱を起こしたことになってます。午前4時ころの誤記かと思いますが・・・。

同保安隊に対しては、かねてから抗日戦線参加の工作が進められていたが、27日の戦闘の際、関東軍飛行隊が保安隊兵舎を誤爆したのを噴激し、かつ第29軍戦勝の宣伝を信じて反乱を起こし、翼察当局から賞与を得ようとしたものであった。

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冀東保安隊に対する日本軍の誤爆をちゃんと記載している点は評価できますが、「翼察当局から賞与を得ようとした」と根拠を提示せずに断定で表現するのはいただけません。

当時通州には、同地守備に任ずる支那駐屯歩兵第1連隊の1小隊及び補給準備のため同地に宿営していた兵站自動車1中隊だけの総兵力約110名であり、よく敵の攻撃を拒止し辛うじて守備隊兵営を確保したが、居留民を保護する余力は全くたかった。
駐屯軍司令官は臨時航空兵団に命じ敵を爆撃させるとともに、豊台の支那駐屯歩兵旅団長に命じて支那駐屯歩兵第2連隊の主力をもって救援させ(30日朝到着)、通州一帯を掃蕩した。保安隊は29日1600ころから行われた爆撃を機に、戦闘をやめ北平に向かった。

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いくつか間違いがあります。救援のための支那駐屯歩兵第2連隊が通州に到着したのは、「30日朝」ではなく30日の夕方です。しかも到着したのは斥候の一個分隊程度、主力が到着したのは31日になってからです。
「保安隊は29日1600ころから行われた爆撃を機に、戦闘をやめ北平に向かった」というのも間違いで、爆撃後も若干の戦闘が行われ、冀東保安隊はその後撤退しています。

香月駐屯軍司令官は、30日2000、次期作戦の準備をなすとして、戦闘終結を宣言した。7月7日以来の日本軍の戦死者は127人、戦傷者348人だった。総計61回の「事件」にたいしこの数字であり、戦線があり向かい合うような戦闘がなかったことを物語る。
参本は保定=独流鎮の線で制定することを決め、支那派遣軍は概ねその線の手前まで進み停止した。ここにおいて第29路軍との「戦争」は終結したと認識したものか、北平入城式が8月8日から3日間挙行された。宋哲元は7月28日に北平を脱出し、保定方面に向かったとされる。

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別宮氏の「7月7日以来の日本軍の戦死者は127人、戦傷者348人」のソースがわかりませんが、7月30日以降8月3日までの4日間の戦死傷者数を含めると以下のようになります(陸軍省新聞班発表 第四三号(昭一二・八・一一))。

七月七日から八月三日正午までに於ける我軍の死傷は次の如くである。

区別 将校 准士官以下
戦死 24 340 364
戦傷 59 810 869
83 1150 1233
http://binder.gozaru.jp/043-pe.htm

最後の4日間で戦死者が3倍に増えるというのはちょっと考えにくいので、別宮氏の引用元がかなり限定的な記述だったかと推察されます。

*1:第29軍を「第29路軍」と表現するのも他では見た覚えがありません。

*2:独立第39旅の傳鴻恩部隊が駐屯していましたが、7月27日朝に日本軍の一方的な攻撃を受け敗走しています。