「Sさんの体験談」というのは、佐賀県基山町の僧侶調寛雅(しらべ かんが)氏(2007年1月死去)がタイで設立した慧燈財団*1による本「天皇さまが泣いてござった」に掲載された通州事件の目撃者というSさんという女性の証言です。本自体が手に入らないため、ネット上への引用を信頼して記述します。
この「天皇さまが泣いてござった」という本については以下のように説明されています。
調前理事長が著し、平成9年11月に上梓されたこの本は、前半部分が先の大戦によって日本が蒙った被害について書かれており、後半部分は主に、調前理事長の自坊である因通寺 (佐賀県)に戦後開設された戦争罹災孤児引揚養護施設「洗心寮」を昭和天皇が行幸された時のことについて著された本です。
調氏は学徒出陣した経験を持ち、終戦直後に実家の佐賀県因通寺で戦災孤児を養護しています。その後1989年になってタイ北部に訪れ、日本兵の遺骨収集やタイの貧しい子どもたちを養育する慧燈学園を設立しました。しかしタイ人の学園長と運営方針と資金がらみの係争が生じていたようです。*2
経歴から見て調氏が立派な方なのだろうとは思いますが、「天皇さまが泣いてござった」には疑問もあります。
この本の上梓は1997年ですが、この本の序文「発刊をねがう」を元掌典長の永積寅彦氏が、序文「発刊にあたり」を元侍従長入江相政氏が書いています。永積寅彦氏は大迫尚道陸軍大将の三男で昭和天皇の学友であり、侍従次長、掌典長を勤め、昭和天皇大喪の際は祭官長を務めていますが、1994年に死去しています。入江相政氏も昭和天皇の侍従長を務めた名家*3出身ですが、昭和天皇より早く1985年に亡くなっています。
もちろん、上梓が1997年でも序文などを含めて1985年に文章が出来上がっていることもあるでしょうし、そもそも1985年以前の原書がありそれを慧燈財団で再版したのが1997年ということかも知れませんから、これだけでどうこうという問題にはなりません。
なお、入江相政氏が侍従長を務めたのは1969年9月16日から1985年9月29日に死去するまでですから「元侍従長」という肩書きは少し変な気がします。
また、この中にあるSさんの体験談には通州事件について「五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。」*4と書かれていますので、Sさんの体験談は1987年以降に記載されたことになります。そうすると、元侍従長入江相政氏名義の序文は一体いつ書かれたのか、いささかミステリーです。原著が先にあり、その後、復刊などで「Sさんの体験談」などが追加された、というなら理解はできますが・・・。
Sさんの体験談
Sさんの体験談については以下のサイトで5回に分けて引用されています。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100901/p1
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100915/p1
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1
Sさんは中国人男性と結婚して中国人として事件当時通州に住んでいたということで、通州の日本人居留民も日本軍も中国人住民らもSさんのことを中国人だと思っていたとのことです。似たような事例は他にもありますから、これ自体は本当かもしれません。明言はされていませんが、「女としては一番いやなつらい仕事」などの表現から、Sさんは酌婦、つまり売春婦として大阪で働いていたようで、そこで中国人のTさんに身請けされて結婚しています*5。結婚したのは1932年2月でこのときSさんは20代半ばを過ぎていたそうです。中国に渡ったのは1932年3月、最初は天津で働き、1934年初め頃に通州に移り雑貨商を営むようになります。
しかし、Sさんが語っている体験談の中には明らかな誤りなどが見受けられ、いくつかについては後日の伝聞などを体験したように語っていると見られる部分があります。
まず、そういった誤っている点・違和感のある点についてピックアップしていきましょう。
通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1
この部分については時期が記載されていませんが、前の段落で1934年初めに通州に移ってきたこと、直後の段落で1936年春のことが書かれていることから、1934年-36年の時期であったことがわかります。この期間に華北自治運動や冀東防共自治政府成立と言った通州における大事件が起きていますが、これについてのSさんの言及は全くありません。1934年に通州に移ったことは、おそらく1933年の塘沽停戦協定により通州以東が中国軍の非武装地域とされたことに伴う商業上のチャンスを見越したものであろうとは推察できますが、冀東政府の成立に伴う軍政府関係との関り方について記載がないのは残念です。
ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1
このあたりの記述には冀東特殊貿易という名の事実上の密貿易の影響が見てとれます。冀東政府を経由した密貿易は華北経済に深刻な悪影響を与えつつ日本側に不当な利益を上げさせましたが、このTさんSさん夫婦もこれに関与していたと推察できます。冀東政府は1936年2月に輸入貨物査験所を設けますが、日本からの輸入製品のみ正規の関税の4分の1にするという状況で事実上の密貿易が公認されます。日本側はこれを冀東特殊貿易と呼びましたが、中国側は検査所を強化するなどして対抗し、また大量の輸入製品がだぶつき価格が低下したため、1936年後半には減退し始めます。
通州における対日感情の悪化は、日本のあからさまな中国政策による中国経済の混乱などが原因のひとつとなってます。
ただ、このSさんの話は、それまで日本軍や日本人居留民との取引で儲けていたTさんが1936年春ごろの時点で方針を転換したことがやや不自然に思えます。
只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。そして安重根という人の話を語りました。伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1
通州に居住していた朝鮮人は商売人や日本軍の通訳、または売春宿などの経営を行っていた人やその家族が多く、このような学生か活動家のような人が多くいたとは考えにくいです。また、他の部分でSさんは日中間の政治情勢などについて全く記載しておらず興味もなさそうな感じで書いていながら、安重根や伊藤博文といった部分だけ詳細に記憶しているのもいささか不可解です。
反日感情を訴える発言をする者がこの時期いたとすれば、北平や天津の大学に通う中国人学生や、あるいは朝鮮系中国人学生などでしょう。
そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1
ここも少し不自然というか説明不足です。冀東政府は1935年成立ですから「蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると」というのが一体いつなのかよくわかりません。ただ好意的に解釈すれば第6次掃共戦を指すと考えられます。第6次掃共戦では張学良が旧東北軍を率いて参加していますが、華北民衆や学生、旧東北軍将兵の抗日意識の高まりの中、国共内戦の継続に疑問がもたれるようになってきています。共産党系の活動家や学生の煽動もあったでしょうが、民主系の知識人などにも抗日意識が高まっていましたし、それを受け入れやすい状況に華北民衆が追い込まれていたことも考慮すべきです。そういう雰囲気の中で冀東保安隊の中に日本の傀儡政権の軍隊でいることへの疑問が生じたことは不思議ではありませんし、そもそも冀東保安隊は旧東北軍系からの改編ですから、そういった意味ではありえる話です。
昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1
ここも不自然です。テロ事件を指しているのなら理解できますが、戦端を開いたわけではありませんので表現としておかしい部分です。
上海で戦端が開かれるのは通州事件(7月29日)より後の8月13日です。済南も日本軍が占領するのは12月27日です。通州事件直前の通州で、これらの噂が流れることはありえません。良い方に考えれば、Sさんの記憶が通州事件後のものと混乱しているということになります。悪く言えば、脚色・捏造ということになるでしょう。
日本人の居住区にもよく行きました。この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。でもTさんはそれを許しません。それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。このときはとても悲しかったのです。それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。このことが大変悲しかったのです。私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1
この辺は当時の空気を表現しているように思えますが、「日本人の居住区」というのは妙です。通州には日本人は住んでいましたが、居住区というものはありません。
そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1
Sさん自身には朝鮮人に対する差別感情が相当にあるようで、Sさんの体験談には朝鮮人に対する侮蔑感を感じる場所が多くあります。それはそれとして、この部分は明らかに間違いです。当時、朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものはいません。旧大韓帝国時代の将校で韓国併合に伴い、日本軍に移籍した極少数の将校がいた程度で、その他には日本人と結婚するなどして内地の戸籍を取った者(これもそう多くはありません)やその家族のうち何人かは日本兵になっているくらいでしょう。ここも極めて好意的に解釈するなら、軍属として雇われることを軍隊に入隊とSさんが誤認していたと考えることは出来ます。
そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。それが七月になると「日本人皆殺し」「日本時*6は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1
これはありえません。日本の傀儡政権である冀東政府の首都・通州で、武器を持った学生が明らかな反日言動でデモを行うなど考えられません。もしあったなら駐屯している日本軍だけでなく冀東保安隊からも弾圧されたはずです。せいぜい数人の学生が街頭で抗日を訴え、当局が来るまでに引き上げる、といった程度の行動しかなかったはずです*7。
通州事件
七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。突然私はTさんに烈しく起こされました。大変なことが起こったようだ。早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。町には一杯人が出ておりました。そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。でもまだ辺りは薄暗いのです。何がどうなっているやらさっぱりわかりません。只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。私はTさんと一緒に逃げながら「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1
ここもおかしいです。日本軍兵舎の戦闘は夜が明けてからも続き、29日中持ちこたえていました。兵舎の炎が見えるような場所にいたなら、午前中いっぱいは銃砲声が聞こえていたはずです。
*1:1995年設立
*2:第15回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『魂魄(こんぱく)の道を生きる〜タイ北部遺骨収集の前途〜』(サガテレビ)2006年<11月9日(木)深夜3時10分〜4時05分放送> http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/15th/06-373.html
*4:http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100901/p1
*5:「雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているという」
*6:引用ママ
*7:そもそも、このような反日言動を蒋介石政権が取り締まっていないと抗議して、冀東から国民政府軍を追い払い傀儡政府を作ったわけですから。