通州事件に関する日本側証言は正確か?(Sさんの体験談3)

「Sさんの体験談」における事実誤認部分の指摘です。長いので分割し、3回目です。その5を取り扱います。

Sさんの体験談

Sさんの体験談その5
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1

虐殺現場の目撃談6・東門付近の集団虐殺

(略)「日本人が処刑されるぞー」と誰かが叫びました。
(略)Tさんはやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。

そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。引き金に手をかけたらそれが最期です。何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。バタバタと日本の人が倒れて行きます。機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。五十数名の日本人は皆倒れているのです。その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。保安隊の兵隊達は日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

(略)私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1

明確に東門付近とは書いてませんが、「日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地」という記載から北門付近ではありえず、消去法から東門付近の集団虐殺地となります。
そうすると、少しおかしなことになります。Sさんは「虐殺現場の目撃談2」でも東門付近の虐殺現場に行っています。その後、街の中心部に戻っているのに、また東門に向かっています。この後の行動も不思議で、東側から北側へ抜けようとして城内の道を通って、北門から入るというおおよそ支離滅裂なルートを通っています。Sさんの家は通州城内西側の新城区にあると思われますが、東門付近から新城区へ帰るなら、東大街路から西大街路へと抜けるのが普通です。そこが日本人が暴行されているから通りたくないという場合、東門から南側に抜けて南門または新南門から城内に入るのが普通です。どう考えても北門や近水楼付近を通るはずはありません。ところがなぜかSさんは北門に向かったわけです。

虐殺現場の目撃談7・近水楼付近の集団虐殺

その近水槽の近くに池がありました。その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人もの支那人がいるのでそれは出来ません。若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外の支那人達はおかしく思うに違いありません。国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。(略)

そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。そして首を前の方に突き出させたのです。そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1

ここはもう明らかに間違いだらけです。まず「共産軍の人達」という表現がありえません。中共軍は当時の通州には来ていません。保安隊などの内部に入り込んだ共産党員はいたかもしれませんが、Sさんという一般人が見て「共産軍の人達」とわかる服装で来ているはずがありません。通州事件当時は第二次国共合作も成立していませんから、「国民政府軍の将校」と「共産軍の人達」が同居しているのはほとんど御伽噺です。
次に、安藤記者の手記にあるように、北門付近で集団虐殺が行われていますが、それは近水楼の前の池ではありません。近水楼の前の池というのは通州城内でもっとも大きな池で現在は西海子公園になっています。しかしそこで大量虐殺が行われたという記録はありません。
事件直後には、「近水楼がひどいことになっている」との噂が流れましたが、実際には大量虐殺は北門付近で起きており、近水楼では女中らが屋内で殺害されています。東京裁判での桜井証言などでも近水楼の屋内での虐殺の様子は語られていますが、近水楼前の池で虐殺があったことを示す証言はありません。事件直後に通州に入った武島記者の記事でも近水楼内部しか記述されていません。実態がよく分かっていなかった事件直後に生存者らによって、近水楼前で虐殺があったと噂はされていたようで以下のような記録があります。

外務省情報部が1937年8月10日にまとめた週刊時報141「事変と日本側 支那兵残虐の跡(通州邦人屍体検分)」

支那兵残虐の跡(通州邦人屍体検分)
七月二十九日早朝冀東保安隊反乱の犠牲となった通州在留邦人に対する支那兵残虐行為の実状に関し八月二日及三日通州に於ける警察官の直接検分し、又は生存者より聴取せる所左の如し。
二、屍体侮辱
婦女子の屍体に対し詣種言うに忍びざる侮辱を加えた。尚男女を問わず、屍体を見るに、残虐行為の跡歴然たるものあり。是等屍体は路上に放置され、又は錦水楼傍の池中に投ぜられた儘となっていた。

ここでは「警察官の直接検分し、又は生存者より聴取せる所」とありますが、上記が事実だとすれば、安藤記者の証言と明らかに食い違いますので「生存者より聴取せる所」の伝聞と考えるべきでしょう。

Sさんの証言は記憶違いとしてはあまりにもずれ過ぎており、記載内容をそのまま信じることはできません。

Sさんの証言は信用できるのか?

実際に通州事件当時、Sさんが通州にいたのかどうか自体、あまり信用できません。通州城内の事件前の様子などの記載に誤りが多いからです。とは言え、50年も経っている以上多少の記憶違いや忘却部分の事後知識による補完などで不整合が生じることはありますから、ひょっとしたら実際に当時通州にいたのかもしれません。(scopedog自身は、この可能性も低いと見ています。その大きな理由として、日本軍兵舎と保安隊の戦闘が29日日中も続いていたことに対する言及が全くない点が挙げられます。野砲も用い、日本軍の空爆もあったにも関らず、狭い通州城内でそれを把握していないというのは、あまりにも不自然です)

しかし、虐殺の目撃証言に関しては、ほぼ間違いなく事件後の報道や噂話から自分が体験したように偽装していると言えるでしょう。主要な虐殺現場全てに、まさに虐殺が行われている時間帯に、効率よく巡って目撃するなど偶然では説明がつきません。
どうも1980年代、日中国交正常化以後、反中感情を高めた勢力の影響を受けて、東京裁判での日本軍擁護のための通州事件の記事を知って、それを元に創作したのではないかと思います。
Sさんの体験談には、そこかしこに中国人や朝鮮人に対する蔑視・差別感情が色濃く出ており、そういった思想背景と1980年代後半の社会背景がこういった創作を生んだように思われます。