通州事件に関する日本側証言は正確か?(Sさんの体験談2)

「Sさんの体験談」における事実誤認部分の指摘です。長いので分割し、2回目です。その3以降を取り扱います。

Sさんの体験談

Sさんの体験談その3
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100901/p1
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100915/p1
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。

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前回も指摘しましたが、29日8時〜9時の時点では日本軍兵舎の戦闘も続いていましたし、特務機関での戦闘も継続中でした。なので「銃声があまり聞こえなくなった」というのは不自然です。
また繰り返しですが、「日本人居留区」というのもおかしな表現です。通州城内には明確に日本人居留区というものが存在したわけじゃありません。だいたい大通りに面した場所かその裏通りに店や家を構えていましたが、当然中国人の店や家と混在していました。そもそも、人口数万の通州城内に日本人・朝鮮人はわずか400人程度しかいませんでしたから、「居留区」など作りようがありませんでした。Sさんは通州に長年住んでいたはずなのに、このような誤認をしているのは、ちょっと理解できません。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。何か生臭い匂いがするのです。血の匂いです。人間の血の匂いがして来るのです。しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。沢山の支那人が道路の傍らに立っております。そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

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何度も言いますが、日本軍兵舎ではなお戦闘中でした。好意的に解釈すればSさんが領事館警察または特務機関を日本軍兵舎と勘違いしていたということになりますが、Sさんは商売で何度も兵舎を訪れたと言っていますから、それも不自然です。

虐殺現場の目撃談1

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。
(略)
と、そのときです。一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。何かグシャッというような音が聞こえたように思います。頭が割られたのです。
(略)
この娘さんは既に全裸になされております。そして恐怖のために動くことが出来ないのです。その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。そして陵辱をはじめようとするのです。支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。どうしても陵辱がうまく行かないのです。すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。
(略)
保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。見てはいけない。見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。それから剣で首を切り落としたのです。その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
(略)

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長いのと内容が内容だけに略しましたが、大意は上記引用どおりです。要するに反乱を起こした保安隊員や学生らが日本人女性を引きずり出し、陵辱しようとし、邪魔しようとした父親を殺害し、女性も陵辱後、殺害した、まさにその現場をSさんが見た、という記述です。
しかし、どうも信憑性に乏しいように思います。例えば父親らしい男性は腹を切り裂かれた上に首を切られたわけですが、このような遺体が路上に放置されたならかなり目立つはずですが、他の証言にこのような死体を見たという証言がありません。


虐殺現場の目撃談2

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。(略)そちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。(略)日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。(略)掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。(略)学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。そして勿論裸足にしております。その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。でも倒れることは出来ません。外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。(略)

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第1段落最後の一文にはSさんの中国人に対する差別意識が露骨に出ていますが、それはともかく、手に穴を開けて針金を通すという虐待行為の目撃証言です。これもかなり信憑性が低いように思います。まず、ある程度の人数が集められていることから、現場は北門近くか東門近くのいずれかであろうと推定できます*1。北門近くに集められた居留民の様子については安藤利男記者の証言から、上記引用のような虐待はなかったことがわかりますから、現場候補は東門付近以外にありません。

手に穴を開けて針金を通すというのは一応別の証言があります。

支那駐屯歩兵第2連隊 小隊長 桜井文雄の証言(1947年4月)

なお、この証言が東京裁判時のもので、日中戦争開戦にあたっての日本側の責任を否定するための証言であることは最低限踏まえる必要があります。

「守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たはって居り、一同悲憤の極に達した。『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこそこの埃箱の中や壕の中などから続々這ひ出してきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されてゐた。婦人といふ婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されて居り、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されて居り、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐へなかつた。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合はせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があつた。池の水は血で赤く染まつてゐたのを目撃した」

http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/yougo/tsusyu.html

桜井証言については別途取り上げるつもりですが、桜井氏の通州到着は7月30日夜〜31日ころで、この頃には守備隊や居留民などによる遺体回収が始まっていましたから、虐殺されたままの遺体を桜井氏が本当に目撃したかどうかは疑問が残ります*2

Sさん証言と桜井証言が正しいとすると、”手に針金事件”の現場は「東門近くの池」ということになりますが、微妙な差異があります。
Sさん証言では、十名ほどの日本の男の人が”手に針金事件”の犠牲者ですが、桜井証言では「一家六名」となっています。両名とも本当に目撃したのなら、この差異は奇妙です。

”手に針金事件”の原型

桜井証言中には他にも針金関連の虐待例が出てきます。「鼻に牛の如く針金を通された子供(略)がそこそこの埃箱の中や壕の中などから続々這ひ出してきた。」の部分です。ここでは犠牲者は生きていることになっています。しかし、実はこれには原型があり、外務省情報部が1937年8月10日にまとめた週刊時報141「事変と日本側 支那兵残虐の跡(通州邦人屍体検分)」に以下の記載があります。

支那兵残虐の跡(通州邦人屍体検分)
七月二十九日早朝冀東保安隊反乱の犠牲となった通州在留邦人に対する支那兵残虐行為の実状に関し八月二日及三日通州に於ける警察官の直接検分し、又は生存者より聴取せる所左の如し。
一、惨殺行為
発見された婦女子は、多くは腕又は足を縛り、甚だしきは旅館錦水楼女中の如く、鼻に穴を明け、数珠繋ぎとして之を拉致し併列せしめ、機関銃を以て惨殺したものもある。

ここでは鼻に穴を開けて数珠繋ぎにされたのは近水楼の女中となっています。近水楼の女中の殺害方法でこのように記載されているものは他には見当たりませんので、実際に遺体検分した結果ではなく、生存者への聴取結果による記載と思われます。

近水楼で酷い虐殺が起きていたという話は7月31日には出回っていました*3が、当然まだ詳細な情報は届いていない時期でした。「鼻に穴を開けて数珠繋ぎ」というのは、その中で広まった噂話で、最初は近水楼の女中が犠牲者だと噂され、戦後の東京裁判では東門での犠牲者が「鼻に穴を開けて数珠繋ぎ」にされたことになり、さらに尾ひれがついて、”手に針金事件”が創作されたものと思われます。
Sさんの体験談は1980年代の作ですから、”手に針金事件”を体験談として取り込んだのではないかと思われます。

ちなみに1937年8月4日の新聞に掲載された緒方氏の証言には、東門の犠牲者についても言及されていますが、”手に針金事件”の言及はありませんが、以下の記述があります。

また東門の他の池にも二十九名の惨殺死体が抛り込まれ、これ等はいづれも縛られた儘でここ迄連れられ嬲り殺しに遭ったのだ、

犠牲者が縛られていたのは事実でしょう。しかし、手や鼻に穴を開けて針金を通すなどという面倒なことをわざわざやったかどうかは疑問です。


虐殺現場の目撃談3・旭軒の虐殺

(略)こんな沢山集まっている支那人達が少しづつ移動しているのです。この沢山の人の中には男もいます。女もいます。私もその支那人達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。二人とも真っ青な顔色でした。一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。(略)その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。そしてそこにバッタリ倒れたのです。すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。(略)
そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。(略)恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。私もTさんもどうすることも出来ないのです。もうこんなところにはいたくない。家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

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朝日軒で虐殺が起こったのはおそらく間違いないものと思われます。しかし、Sさんの体験談では、旭軒の事件は東門の虐殺の後になっています。これは時系列的におかしい点です。朝日軒での事件は、安藤記者の手記から29日午前中の早い時間に起きています。Sさんは通州の西(新城)に住んでおり、そこから日本人や朝鮮人の住む旧城の大通りに行き、第1の虐殺を目撃し、さらに東に向かって東門での第2の虐殺を見た後、今度はまた旧城の大通りに戻って朝日軒の虐殺を目撃したことになっています。狭い城内とは言え、この行程は悠に4〜5キロはあります。途中で虐殺の様子を見ていたとすると、朝日軒についた頃には、正午近くになっているはずで、時間的に朝日軒で虐殺があった時間とはずれています。

また、ここでも「日本人居留区」が出てきます。通州では明確に日本人居留区が区別されていたわけではありませんので「日本人居留区に入った」という表現はどう考えてもおかしな点です。

虐殺現場の目撃談4・腕を切られた老婆

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。沢山の日本人が殺されています。いやまだ殺され続けているのです。あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。(略)旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。お婆さんは仰向けに倒れました。学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。(略)するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。そして息が止まったのです(略)

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ここでは老婆が腕を切られて殺害される所を目撃しています。しかし、この腕を切られる老婆についても原型があります。東京裁判の桜井証言にある

『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこそこの埃箱の中や壕の中などから続々這ひ出してきた。

この部分で「片腕を切られた老婆」が出てきます。ただし桜井証言では「続々這ひ出してきた」とあり、老婆は死んでいません。桜井証言での老婆とSさん証言の老婆が別人である可能性もありますが、全犠牲者数が200人程度、居留民全員でも400人程度しかいない中で、片腕を切られた老婆、というのが何人もいるというのは少し考えにくいように思います。
ちなみに通州にいた居留民の性別・年齢は概ね判明していますが、50歳以上の女性は日本人で4名(全員死亡)*4朝鮮人で3名(うち1名死亡)*5の計7名に過ぎません。7名中2名が同じように腕を切り落されたというのは、偶然というには違和感があります。

Sさんの体験談には、”手に針金”事件や腕を切られた老婆など、奇妙なほど桜井証言との類似性があります。そして上記引用中の「腹部を銃剣で刺された妊婦」もその殺害される現場(桜井証言では生きているが)を目撃しています。

虐殺現場の目撃談5・皮を剥がれた男と腹を割かれた妊婦

(略)すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。何とその女の人はお腹が大きいのです。七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。(略)

とそのときです。一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。(略)学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。(略)

(略)この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。(略)

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このあたりは木刀しか持たない日本人が大勢の兵隊を相手に大立ち回りして2人までは倒したという話ですが、いかにも芝居がかっており不自然です。それに当時の日本人で剣の覚えがある者でしたら、木刀ではなく日本刀を持っていそうです*6
何よりも変なのは「保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました」という部分です。7月29日の段階で通州に国民政府軍がいたというのはどう考えてもありえません。第29軍の残党がいた可能性は皆無ではないでしょうが、一目で国民政府軍とわかる服装でいたはずがありません。

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。(略)頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。目玉を抉り取ると今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。(略)
剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。赤い血がパーッと飛び散りました。(略)
お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。(略)

http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1

腹を割かれた妊婦は、桜井証言でも「腹部を銃剣で刺された妊婦」として出てきますが、やはり桜井証言では生存者として述べられていますので、Sさん証言と同一人物かどうかはわかりません。ただし、この桜井証言以外で、Sさん証言と同様の殺され方をした遺体の記録は見当たりません。
目を抉り取られ腹を切られ腸を引きずり出された男性の犠牲者については、以下の桂鎮雄証言に原型らしいものが見られます。

支那駐屯歩兵第2連隊 歩兵砲中隊長代理 桂鎮雄の証言(1947年4月)

「(略)帳場配膳室では男は一人、女二人が横倒れ、或はうつ伏し或は上向いて死んで居り、闘つた跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のやうだつた。(略)南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置されてあつたが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱してゐた。」

http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/yougo/tsusyu.html

しかし、目玉をくりぬかれていたのは近水楼の犠牲者、内臓を露出していたのは南城門近くの犠牲者で別人です。Sさん証言は、これらを組み合わせた創作にも見える内容です。
Sさん証言が事実なら、腹を割かれた男女の遺体が路上にあったはずですが、それを目撃したという証言は見当たりません。類例が東京裁判時の日本の弁明のための証言(桜井証言や桂証言)に見られますが、事件直後の報道には見当たりません。

*1:それ以外に何十人も居留民が集められた場所はありません。

*2:東京裁判における支那駐屯歩兵第2連隊関連の証言には全てのこの問題が付きまといます。

*3:http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20110724/1311512166

*4:54歳、55歳、60歳、当人の年齢不明だが夫の年齢56歳と同程度と仮定

*5:55歳、64歳、66歳

*6:大陸浪人の中にはそういう人がたくさんいました。