通州事件に関する日本側証言は正確か?(東京裁判での日本擁護のための弁明)

通州事件関連のウヨ記事でよく引用されているのが、東京裁判時の支那駐屯歩兵第2連隊関係者の証言です。しかし、支那駐屯歩兵第2連隊は、通州事件翌日(7月30日)夜半に通州に到着しており、実際の虐殺の様子をどの程度見たのかは疑問です。通州滞在も2〜3日程度で、事件後10年経った東京裁判証言がどの程度信頼できるかも疑問と言えます。

支那駐屯歩兵第2連隊 小隊長 桜井文雄の証言(1947年4月)

まず、この証言が東京裁判時のもので、日中戦争開戦にあたっての日本側の責任を否定するための証言であることは最低限踏まえる必要があります。

「守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たはって居り、一同悲憤の極に達した。『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこそこの埃箱の中や壕の中などから続々這ひ出してきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されてゐた。婦人といふ婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されて居り、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されて居り、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐へなかつた。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合はせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があつた。池の水は血で赤く染まつてゐたのを目撃した」

http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/yougo/tsusyu.html

実に凄惨な虐殺現場についての証言ですが、事件翌日の1937年7月30日から裁判出廷の1947年4月25日まで、ほぼ10年経過しているにしては、詳細過ぎるきらいがあります。
実際問題として、桜井文雄氏が証言どおりの光景を自身の目で見たかどうかにはかなり疑問があります。なぜならば、桜井氏は7月30日に支那駐屯歩兵第2連隊主力と共に通州に到着していますが、その時刻は早くても7月30日の午後4時〜5時ごろです。
すでに冀東保安隊は昨晩のうちに撤退しており、日本軍守備隊は30日朝から通州城内の偵察を行っています。「守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たはって居り」という状況だったとすれば、既に冀東保安隊のいないのですから、日本軍守備隊や非難してきた居留民たちが、30日午前中のうちに遺体を収容しているはずです。30日朝には把握していた遺体、しかも守備隊の東門を出てすぐにあった遺体が、夕方午後4時〜5時まで放置されていたというのはあまりにも不自然ですから、桜井文雄氏の証言は本人の体験ではなく、おそらくは伝聞によるものでしょう。
もし東京裁判通州事件に関して深く審議した場合、桜井文雄氏は偽証罪に問われた可能性もあります*1

支那駐屯歩兵第2連隊 歩兵砲中隊長代理 桂鎮雄の証言(1947年4月)

「近水楼入口で女将らしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあつた。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があつたと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱してゐた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだやうだつた。折り重なつて死んでゐたが、一名だけは局部を露出し上向きになつてゐた。帳場配膳室では男は一人、女二人が横倒れ、或はうつ伏し或は上向いて死んで居り、闘つた跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のやうだつた。女二人は何れも背部から銃剣を突き刺されてゐた。階下座敷に女の屍体二つ、素つ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行つたことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素つ裸の女の屍体があつた。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されてゐた。子供は手の指を揃えて切断されてゐた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置されてあつたが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱してゐた。」

http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/yougo/tsusyu.html

この桂鎮雄氏の場合は、通州到着が桜井氏よりも遅く7月31日午前2時半とされています。冀東保安隊の撤退からほぼ24時間も経過しているにも関らず、近水楼に遺体が殺害された時の状態のまま放置されているとは考えられません。また「南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置されてあつた」というのも時間的に不自然きわまります。この桂証言が事実なら、日本軍は通州を制圧してから24時間もの間、全く居留民犠牲者の遺体収容を行っていないことになりますし、居留民の生存者が同胞の遺体を収容することも止めていたことになりますが、さすがにそれはありえないでしょう。
したがって、この桂氏証言も伝聞と考える他ありません。

支那駐屯歩兵第2連隊 連隊長 萱島高の証言(1947年4月)

「旭軒(飲食店)では四十から十七〜八歳までの女七、八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されて居り、その中四、五名は陰部を銃剣で突刺されてゐた。商館や役所に残された日本人男子の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだつた。」

http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/yougo/tsusyu.html

これは、支那駐屯歩兵第2連隊の連隊長だった萱島高氏の証言です。前2者と同様、萱島氏も通州到着時刻から考えて、証言どおりの光景を自身の目で見た可能性は極めて低いと言えます。仮に女性の犠牲者が「陰部を露出したまま射殺されて居」たとすれば、遺体発見者らがなるべく早く着衣を直そうとするのが普通の感情でしょう。わざわざ連隊長に見せるためにそのままにしておいたというので無ければ、萱島氏が証言どおりの光景を目にするはずがありません。したがって、この萱島氏証言も伝聞以外には考えられません。

支那駐屯歩兵第2連隊関係者の証言の信用性は低い

支那駐屯歩兵第2連隊が、通州に到着したのは7月30日午後4時です。連隊主力はさらに遅く31日の到着でした。そして、31日以降、居留民に対する対応や中国人住民の宣撫、遺体収容、埋葬などは日本軍守備隊が担当しています。支那駐屯歩兵第2連隊も協力はしたでしょうが、上記証言どおりの光景を目にできる状況だったというのは考えにくいと言えます。

以上、支那駐屯歩兵第2連隊関係者3名の証言を見ましたが、いずれも信用するには値しないと言ってよいでしょう。もちろん、殺害されていたこと自体は事実でしょうが、その殺害方法や遺体の状況などの証言については信憑性がないと言えます。しかも伝聞だとしても、おそらく事件当時に実際に見た将兵からの事件直後における伝聞ですらなく、通州事件に関する戦時報道の記述からの引用である可能性が高いと言える内容です。

*1:東京裁判では偽証罪が適用されなかったそうですが。