通州事件/通州(通県)起義の経過

なかなか本筋に入れず、3回目に突入。
1回目:通州事件/通州起義
2回目:通州事件/通州(通県)起義の背景 - 誰かの妄想・はてな版

今回ようやく本筋の通州事件に入ります。
まず、事件の時系列を簡単に見てみましょう。参考としたのは寺平忠輔氏の「盧溝橋事件」と安藤利男記者の「虐殺の巷通州を脱出して」(アジア歴史資料センター:B02030917700)、生存者緒方一策氏*1に対する朝日新聞の取材記事(1937年8月4日)などです。

事件発生

当時通州城内にいた関係者を示しておきます。

  • 冀東政府(殷汝耕ら)
  • 冀東保安隊(張慶余ら)
  • 日本軍守備隊(辻村憲吉中佐、山田正大尉、藤尾心一中尉ら)
  • 領事館警察(浜田末喜ら)
  • 特務機関(細木繁中佐、甲斐厚少佐ら)
7月29日午前2時半

冀東保安隊が反乱を起こして、まず襲撃したのは首席殷汝耕のいた冀東政府です。この冀東政府関係建物の制圧はほとんど抵抗を受けず成功しています。ここで殷汝耕の身柄の拘束にも成功します。この際に犠牲になったのは日本人顧問など数名です。

7月29日午前3時

冀東政府襲撃とほとんど同時と思われますが、証言では少し遅れた午前3時ごろに冀東保安隊が日本領事館警察を襲撃しています。ここでは日本人警官らが抵抗したため銃撃戦となっています。どのくらいの時間が経過したかは不明ですが、最終的には冀東保安隊に制圧されます。制圧後、冀東保安隊らは隠れている者がいないか捜索し、その際に警官の家族が巻き添えになったりしています。警官の中には家族と共に居住している者もおり、家族らは銃撃戦の間隠れていましたが、物音などで誰か隠れていることに気づいた冀東保安隊員は手榴弾を投げ込み、そのために女性や子どもが死傷したという証言があります。
犠牲になった女性や子どもがいたのは確かですが、そうと知って殺傷したという記録ではなく、その場で見つかり捕らえられた女性や子どもなどの民間人は、その場では特に陵辱されることも殺されることもなく、別の場所に連行され、他の捕らえられた民間人と一緒に監禁されました。証言では通州城北門近くの政府関係庁舎です。連行された時刻は不明ですが、4時〜6時くらいではないかと思われます。

7月29日午前4時

これも領事館警察襲撃とそれほど変わらない時刻と思われますが、記録では4時ごろ、冀東保安隊が日本軍守備隊のいる兵営に対して攻撃を開始しています。日本軍は100名ほど、武器はともかく弾薬は、北平攻撃中の日本軍に補給するため、山ほど積んでありました。最高位である兵站司令官辻村中佐が応戦を指揮しています。
ほぼ同時に*2、別働の冀東保安隊1個中隊が日本軍特務機関を襲撃しています。特務機関は領事館警察よりも激しく応戦し冀東保安隊側にもかなりの死傷者を出したようです。このとき特務機関に宿泊していた緒方氏の証言によると特務機関での銃撃戦は12時ごろまで続いています。
また、おそらくこの頃から、冀東保安隊の別働隊が、城内の日本人・朝鮮人居留民らを拘束し、連行し始めます。
この居留民拘束は当初からの計画だったとすれば、あまりにも手際が悪く*3、疑問が残ります。領事館警察や特務機関襲撃の際に何名かに逃げられ、その捜索が当初の目的だったのではないかと思われます。

そして同盟通信記者安藤利男が滞在していた近水楼(冀東政府からは程近い)に反乱第一報がこの頃届きます。近水楼は日本軍政府関係者の常宿ですから、冀東保安隊が民間人連行を当初から予定していたなら、この時点で近水楼が手付かずだったのは不可解です。

7月29日午前5時

この頃、冀東政府前で特務機関長が射殺されたと記録がありますが、詳細不明の証言で仔細についての信憑性は高くありません。時間的にはもう少し早い時間(3〜4時ごろ)ではないかと思います。

7月29日午前7時

この時点でもまだ近水楼は無事です。安藤らは近水楼から通州城内に火災が発生しているのを視認しています。特務機関の戦闘に伴う火災ではないかと思われますが、緒方氏証言では特務機関でガソリンが燃えたのは午前9時ごろとされています。時間認識の誤差と見るか、いずれかの記憶違いか、あるいは別の火災かも知れません。

7月29日午前9時

冀東保安隊による日本軍守備隊攻撃開始から5時間経過していますが、未だ制圧できず、保安隊側は兵営の北東にある満州電電に野砲4門を配置し砲撃を開始します。

7月29日午前11時

冀東保安隊の砲撃により、守備隊内に貯蔵してあったガソリン2500缶が爆発し、黒煙が高く上がります。この黒煙については、支那駐屯歩兵第2連隊(萱島高)の部隊が視認して、通州で何事か起こっていると判断した人もいました。
また、この黒煙偵察のため、日本軍偵察機*4が通州上空に飛来し、通州城外の日本軍が、通州事件の発生を知ることになります。
この飛行機を見て、日本軍が助けに来ると判断した居留民も多かったようです。一方で、逆の立場である冀東保安隊側は危機感を募らせたでしょう。冀東保安隊は3000人程度に過ぎず、城内の100名程度の日本軍守備隊にもてこずるほど、大した装備も持っていませんでしたから、通州城外の日本軍が反撃してきたらひとたまりもありません。

この時点での冀東保安隊側の選択肢としては、城外の日本軍が殺到する前に撤退するか、通州城に立て篭もって抗戦するか、しかありません。城外の日本軍が来襲してくるのは時間の問題です。張慶余らはおそらく対応を議論したでしょうが、白昼撤退しても捕捉撃滅される可能性が高いためか日暮れまでは日本軍守備隊攻撃に専念することにしたようです。また、隠れていると思われる日本人朝鮮人居留民の捜索も強化します。

7月29日午前12時ごろ

こうして偵察機飛来のため一時停止していた冀東保安隊の砲撃が再開し、これが弾薬を満載した日本軍トラックに命中、次々と誘爆を起こします。誘爆は午後4時まで続き17台のトラック全てが爆発しました。
また、この頃、緒方氏ら4人はまだ立て篭もっていましたが特務機関での銃撃戦は終結しています。緒方氏証言の記事からは包囲していた冀東保安隊側に何らかの混乱が生じた様子が推察できます。

7月29日午前12時半ごろ

一方、当初は見逃されていた感のある近水楼が再び冀東保安隊や学生隊の捜索を受け、隠れていた安藤らが拘束されます。安藤らは北門近くの冀東政府関係の建物に一時連行されます。捜索や連行の際に、冀東保安隊や学生隊による暴行、殺害が生じてはいましたが、この時点では居留民を全て殺害しようと言う明確な意図は冀東保安隊側にはなかったようです。安藤らは連行された場所には既に50人以上の居留民が監禁されていましたが、腕時計などを盗られた以外に特に暴行陵辱された様子は安藤記者の手記からは見受けられません。
冀東保安隊は北門付近で約6時間に渡って、居留民を拘束し続けましたが、最初から殺害するつもりであったなら6時間は長すぎます。また、拘束している間、後の日本側報道に見られるような猟奇的な殺傷陵辱を行っている様子もありません。安藤記者が拘束されていた北門付近は主たる虐殺現場の一つですから、あるいは他の虐殺場所(東門付近など)では猟奇的な殺傷陵辱があったのかも知れませんが、北門と東門でそれほど距離があるわけでもありませんので、まず後日の日本側の猟奇報道を鵜呑みにできないと考えるべきでしょう*5

7月29日午後2時半〜3時ごろ

日本軍守備隊の篭る兵営ではトラックの誘爆が続いていたものの、冀東保安隊と日本軍守備隊との戦闘はこう着状態でした。城内の日本軍守備隊を制圧できなければ、通州城内に立て篭もって城外の日本軍を迎え撃つことは不可能です。となれば、冀東保安隊は日没後なるべく早いうちに通州から撤退しなければなりません。撤退する場合、城内の日本軍守備隊に察知されないようにする必要があります。では、拘束している居留民はどうすればよいか?
これが冀東保安隊が拘束した居留民を殺害しようと考えた動機ではないでしょうか。
居留民の中には日本軍と通じている者が数多くいることは自明です。いたずらに解放すれば、日本軍に通報するのみならず、武器をとって追撃してくる可能性もあります。
冀東保安隊、学生隊のいずれが積極的に居留民殺害を主張したかはわかりませんが、少なくとも12時半から午後2時半の間に、居留民に対する冀東保安隊の対応に変化があったことは、安藤記者の手記からも伺えます。

こうして、午後2時半ごろ、居留民は北門近くの沼地に連行され、そこで射殺されました。この付近での犠牲者は70人程度と見られます。安藤記者はスキをついて逃亡し九死に一生を得ていますが、他にここから助かった人がいたかどうかはわかりません。
また、通州城東門付近でも合計90人ほどが殺害されていますが、殺害時刻がわかる証言は見当たりません。しかし、おそらくは北門と同じ頃で、少なくとも午前12時から午後4時ころの間ではないかと思われます*6

7月29日午後5時ごろ

この頃、日本軍航空隊による日本軍守備隊兵営包囲中の冀東保安隊に対する爆撃が行われ、包囲していた冀東保安隊は撤退しています。既に通州城外に逃れ逃走中の安藤記者が見たのがこの飛行機だと思われます。また、同じ頃緒方氏ら4人(白河氏(28)、中末氏(18)、田島氏(16))が城壁を越えて城外に逃れています。
結局、城内の日本軍守備隊を制圧できなかった冀東保安隊は通州から撤退しました。この時刻については判然としませんが、午後5時ごろまでは冀東保安隊員らがいたのは確かでしょうが、緒方氏が特務機関から城外まで比較的容易に逃走できていること、また爆撃後に5人の朝鮮人女性が救援を求めに日本軍守備隊兵営に駆け込んできたことなどから、徐々に冀東保安隊は通州からの撤退を開始していたと思われます。
29日夜以降については、通州城内における冀東保安隊の姿について記述が見られません*7

通州事件終結

200人以上の日本人朝鮮人居留民が殺害された、いわゆる通州事件はここまでです。7月29日夜明け前に始まった冀東保安隊の反乱は同日日暮れに終結したのです。時間にして15〜6時間程度、特務機関や冀東政府と関係の薄い民間人に犠牲が出た時間だとせいぜい8時間程度でしょう。量的には6週間以上に及んだという南京事件には比べるべくもありません。
また、拘束の目的も日本軍守備隊との戦闘中であることを踏まえた後顧の憂い、いわゆる第五列を取り除くための感があり、殺害の目的も撤退の意図を秘匿するためと見えます。いずれも民間人殺害を正当化できるものではありませんが、”軍事的合理性”をあがめるある種の方々には受け入れやすい理由ではないでしょうか。
通州事件も他の多くの戦争犯罪と同様に、軍事的合理性を人権に優先した結果の悲劇と言えると思います。

事件後

冀東保安隊が撤退後の通州はどうだったのでしょうか。
少なくとも29日夜半には冀東保安隊のほとんどが通州城内から撤収していたと思われますが、兵営に立て篭もった日本軍守備隊は兵営から外に出ようとしませんでした。逃げ込んできた朝鮮人女性から居留民に被害が出ていたこと自体は知っていたはずですが、夜間に斥候などを出した形跡は見出せません。

7月30日午前1時半

日付が変わって7月30日、通州救援のために支那歩兵第2連隊(萱嶋部隊)を派遣する連絡を受けます。また、この頃日本軍兵営にトラックが1台到着します。独立混成第1旅団(酒井部隊)のトラックです。このトラックから順義でも保安隊が反乱を起こしたこと、通州城北の街道上に冀東保安隊がいることが知れます。しかし、この後日本軍守備隊は兵営に篭ったまま、夜明けを待つことになります。

7月30日朝

通州事件から一夜明けた7月30日朝、日本軍守備隊兵営に生き残った居留民が避難してきました。この頃になってようやく守備隊は斥候を出し、通州城内の様子を知ることになります。一方でこの頃、生き残った一部居留民が通州を脱出して北平に向かっています。
午前8時に香月支那駐屯軍司令官が支那歩兵第2連隊(萱嶋部隊)や航空兵団に対し、通州救援を命令しています*8が、この時点では冀東保安隊は通州から退去した後でした。ただし、反乱に加わらなかった保安隊員や学生隊、反乱に協力した住民などが残っていた可能性はあります。とは言え、既に日本軍守備隊兵営の包囲すら解いている状況ですから、反乱部隊が通州を闊歩しているとは言えないでしょう。

7月30日午前9時半。

通州から退去した冀東保安隊はこの頃、北平の東側の城門である朝陽門に到着しています。日本側の記録では、張慶余らは南京政府によるデマ放送に騙されて、南苑で中国側が破れ、宋哲元が北平から退去したことを知らず北平に着いて初めてそれを知って慌てた、とされていますが、記録者が日本軍特務機関の将校らであることを考慮すると、実際にそこまで情勢に無頓着だったというのは考えにくいと思います。
実際、冀東保安隊は南苑から通州に急進中だった支那歩兵第2連隊と遭遇することなく北平に到着しています。中国軍勝利という謀略放送を信じていたなら、通州北門からではなく南門や西門から出てまっすぐ北平に向かうルートを取った可能性が高く、その場合支那歩兵第2連隊らの日本軍救援隊と鉢合わせしていたでしょう。
また、冀東保安隊は北平で城門の兵士から、北平は日本軍が支配していると聞いているというのが日本側の記録ですが、30日の時点では北平城内を日本軍が支配しているとは言えないでしょう。宋哲元から後を任された張自忠が市長を代行していましたし、保安隊に改編した部隊や北苑や黄寺の部隊もありました。
北平にある各国の政府機関や日本軍との交渉上、北平で戦闘を行うつもりがなかったため、冀東保安隊を入城させなかったというのが妥当ではないかと思います。

7月30日午前10時50分。

いずれにせよ北平に入城できなかった冀東保安隊は、日本軍が占領している南苑を避け北平城北側を抜けて撤退しようとしましたが、万寿山*9街道で、独立混成第11旅団第12連隊(奈良部隊)と接触・交戦することになります。

7月30日午後0時30分。

当初それなりに健闘していた冀東保安隊ですが火砲を通州で廃棄しており、独立混成第11旅団第12連隊(奈良部隊)は火力に勝る上、増援が続々と到着し、結局午後0時30分には冀東保安隊が150名ほどの戦死者を出して敗走していきます。この際に連行されていた冀東政府首席の殷汝耕が解放されました。
冀東保安隊は、29日夜に通州を脱してから、この戦闘までに40キロ程度を踏破しています。約半日で40キロというのは軽装の徒歩部隊としては標準的ですが、前29日早朝の反乱開始から考えればほぼ40時間近く戦闘や行軍を続けたことになりますから、かなり疲労困憊していたことでしょう。

7月30日午後4時

一方、通州救援を命じられた支那歩兵第2連隊(萱嶋部隊)は、30日午後4時になってもまだ斥候の1個分隊が通州に到着した程度です。南苑から通州までは30キロ程度ですから30日朝8時から移動したとしても午後4時の段階で一個分隊しか通州に到着していないというのは、少し遅すぎるように思います。支那駐屯歩兵旅団の河辺旅団長から通州に救援に向かう旨の通信が発せられたのは30日午前1時半ですから、その時点からだと14時間以上経過しています。
この支那歩兵第2連隊(萱嶋部隊)の足の遅さは、通州救援に対する消極性を感じさせます。

ともあれ、7月30日午後4時になってようやく通州に外部からの日本軍救援部隊が到着し通州事件終結することになります。

*1:恵通航空公司から特務機関へ派遣された23歳の連絡員。恵通航空公司は満州航空と冀察政務委員会の共同出資とは言え関東軍の影響が大きい会社であり、これを踏まえると緒方氏は民間人ではあるものの軍属と言ってよい立場でしょう。

*2:緒方氏証言では午前3時ごろ

*3:結局、半数の居留民については逃げられています。

*4:デハビラント プスモス機。イギリス製の三座高翼単葉機。満州航空所属の飯島飛行士操縦。独立混成第11旅団(鈴木重康)に配備。

*5:報道に関しては別途取り上げる

*6:緒方氏証言には「市内各所の攪乱と悲痛な同胞の叫喚が胸を打つ、やつと午後四時正門から脱出した」と言う部分があり、午後4時以前に大規模な殺害が起きている様子が推定できます。

*7:ただし、緒方氏証言では翌30日午後5時に支那歩兵第2連隊が到着した際に冀東保安隊が逃げ散ったとあるが、これはさすがにありえません。少なくとも30日時点で既に冀東保安隊は北平北東部に移動していますので、大勢の冀東保安隊が通州に残っていることはありえません。ありえるとすれば、最初から反乱に参加しなかった冀東保安隊の隊員くらいでしょう。(緒方氏証言)「三十日午後五時萱島部隊が入城するのを見た時の喜びは言う迄もない、支那服を脱ぎ捨て裸体になって万歳を連呼すると共に入城した、敵はこれを見て蜘蛛の子を散らすように逃げた」

*8:支那駐屯軍命令の件(3)」 レファレンスコード C04120237400

*9:北平の西北にある頤和園のある場所