通州事件/通州(通県)起義の背景

通州事件/通州起義の続き。
通州事件直前までの話です*1

北平総攻撃の準備行動

一般的に盧溝橋事件直後は(北支限定での)対中戦争については日本政府が積極的であり、軍部は消極的だったとも言われます。郎坊事件、広安門事件などの中国側からの挑発の結果、やむなく攻撃した、的な主張です。しかし、実際には郎坊事件にせよ広安門事件にせよ、日本軍側の挑発行為と言える側面があります。
例えば郎坊事件ですが、郎坊駅は中国側第29軍の支配下にあり、日本軍部隊が立ち入るには中国側の許可を必要とする場所でした。7月25日、日本軍は電線修理の名目で郎坊に部隊を派遣し、それには中国側も許可を出していますが、日本軍が派遣したのは一個中隊200人で電線修理の規模ではありませんでした。しかも電線修理は夜中になっても終わらず、日本軍は中国側に宿舎の提供を要求し、それがこじれた結果、武力衝突に至っています。日本側は電線修理の名目で郎坊に居座り、中国側が攻撃するとこれ幸いと増援部隊を派遣し、郎坊を占領してしまったわけです。
このときの日本軍の行動は、中国船が日本のEEZ内で海洋調査を行うよりも挑発的だといえます。
郎坊事件以外にも、日本側が中国側の不法行為を騒ぎ立てる一方で、日本側も相当な挑発行為を行っています(日本軍偵察機が中国領深くに進入し中国軍を積載した列車と交戦し、中国側に死傷者を出してます)。7月20日頃には北平(現在の北京)付近の日本軍の兵力は、関東軍、朝鮮軍からの派遣兵力でかなり増強されています。これらの日本軍部隊は北京を半包囲する形で展開し、中国側に圧力をかけた状況で広安門事件が起こります。7月26日に日本軍部隊が居留民保護の名目で北京城内に入ろうとして、中国軍部隊と衝突した事件です。

中国側の不法行為ばかりが挙げられていますが、実際には日本軍側も相当の挑発を行っていたわけです。
広安門事件の頃になると既に、日本軍による北京総攻撃は時間の問題でしかありませんでした。日本軍は北京包囲部隊を次々と増強していきます。それらの部隊のうち、通州を通過していった部隊も少なくありません。北京総攻撃が始まれば、通州は日本軍にとって重要な兵站基地になります。

しかし、日本軍にとって邪魔な存在がありました。通州近郊に駐留していた中国軍第29軍の部隊です。

7月27日の通州近郊の戦闘

これが日本軍機が冀東政府保安隊を誤爆した戦闘です。誤爆問題が大きく捉えられることが多いのですが、この戦闘自体の意味合いは無視できません。
通州は冀東政府の西境上にある町で、通州西方すぐに中国軍第29軍の一部隊が合法的に駐屯していました。この部隊、独立第39旅の傳鴻恩部隊に対し、日本軍は確たる理由もなく攻撃を行い撃滅しています。傳鴻恩部隊は1個大隊相当でしたが、攻撃する日本軍は2個大隊に砲兵や航空機の支援があり、圧倒的な戦力差で傳鴻恩部隊はたちまち敗走していきました*2

傳鴻恩部隊が日本軍に対して挑発を行ったと言う記録はなく、せいぜい「不穏な動き」程度の曖昧な根拠で日本軍が一方的に攻撃をしかけています。この理由は、7月28日から開始する予定の北京総攻撃に際し、重要な兵站拠点である通州付近に第29軍の部隊を残しておきたくなかったからと考えられます。

この戦闘に先立つ7月26日、支那駐屯軍司令官(香月清司)は27日正午ないし28日正午*3を期限とした最後通牒を発しています。その期限以前に日本軍は通州近郊の傳鴻恩部隊を攻撃しており、不法行為と呼べる戦闘です。
中国側から見れば、日本軍は約束を守る気などなく、どこまでも強硬に譲歩を迫ってくる、となるでしょう。まして誤爆された通州の保安隊隊員の心中はいかなものだったか。


日本側の論者がこの通州城外の戦闘を語る際、戦闘の不法性については全く目を閉ざしています。

岡野篤夫氏「通州事件の真相」より
 通州城外の傳鴻恩部隊が萱島部隊に攻められたとき、これを見殺しにして動かなかったことは、張慶餘が必ずしも第二十九軍に忠節を尽くしていたとは言えない。
(『正論』1990年5月号所収 P225〜P227)

http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu2.html

この通州付近の独立第39旅に対する攻撃と同じ27日、日本軍は北平南方10kmほどの団河、馬駒橋、北平北方の湯山を占領しています。これらの攻撃も支那駐屯軍司令官の発した期限以前の攻撃であって不法性が高いと言えます。

北平総攻撃

日本軍による北平総攻撃は7月28日明け方に開始されました。28日の主戦場は北平南方の南苑で、中国軍側は副軍長の佟麟閣と第132師師長の趙登禹が率いる衛隊旅、騎兵第9師、軍事訓練団、平津大学生軍訓班の約5000人が主力でした*4。南苑は原則として、張自忠の第38師の担当範囲ですが、実際には第38師は南苑から天津に至る広範囲に点在しており南苑には大した戦力を置いていませんでした*5

対する日本側は第20師団(川岸文三郎)と支那駐屯歩兵旅団(河辺正三)を主力とし、臨時航空兵団(徳川好敏)の支援を受ける強力な部隊です。豊台にいた支那駐屯歩兵第1連隊(牟田口廉也)は西方から、郎坊占領後、団河、馬駒橋へと進出していた第20師団第40旅団(山下奉文)は南方から、支那駐屯歩兵第2連隊(萱嶋高)は通州を経て東方から、それぞれ南苑を攻撃しました。
航空支援と火力・兵力の違いから中国軍側は寸断され各個に包囲殲滅され、中国軍側は大紅門付近に再集結を図りますが、その途中で佟麟閣と趙登禹の乗った車が日本軍の攻撃で破壊され、両名とも戦死します。これが28日午後1時ごろのことです。こうして28日午後2時ごろには南苑が陥落します。多大な損害を受けた第114旅や第38師特務団は南西にある固安に向け撤退しました。
一方で、中国軍第37師の一部部隊が、支那駐屯歩兵第1連隊が南苑を攻撃している隙をついて豊台を攻撃していますが、南苑陥落後の15時には支那駐屯歩兵第1連隊が引き返してきて撃退されています。

北苑方面に対しても日本軍の攻撃が行われ、独立混成第1旅団(酒井鎬次)が沙河鎮(10時30分頃)を、独立混成第11旅団(鈴木重康)が清河鎮(午後3時頃)を占領しています*6が、独立第39旅(阮玄武)や冀北保安隊(石友三)は北苑から黄寺の線を維持しました。
しかし、この28日の戦闘の結果を受けて、第29軍軍長の宋哲元は北平の指揮を張自忠に任せて、自らは北平を離れ保定にまで下がりました。29日午前0時頃のことです。この時の宋哲元の行動には批判もありますが、このとき既に北平は北方に日本軍2個旅団(独立混成第11旅団、独立混成第1旅団)、南方にも日本軍2個旅団(支那駐屯歩兵旅団、第40旅団)が迫る一方で、麾下の第29軍各部隊は広範囲に散らばっており、軍長がわずかな兵力だけで日本軍の包囲下に孤立することを避けるという意味では、やむをえない選択とも言えます。

この宋哲元の北平退去に伴い馮治安の第37師も保定に向って後退し、北平には北苑の独立第39旅、冀北保安隊の他、第132師麾下の独立第27旅が城内に残ったのみです。独立第27旅は保安隊に改編され治安維持にあたりますが、日本軍の西苑占領(29日午後5時ごろ)に伴い武装解除を受け*7、一部は日本軍から逃れ、北方にあった第143師(劉汝明)に合流しています。

7月29日の不明瞭な北苑・西苑の戦闘状況

日本側の発表では、29日の攻撃重点は北平西方の西苑方面であり、独立混成第1旅団は29日午前7時から攻撃を開始、午後4時に黄村(北平西方14km)に達し、独立混成第11旅団は西苑を攻撃して午後5時に八宝山付近に達している一方で、北苑地区の戦闘には触れていません。
29日の時点で西苑付近にあった中国軍部隊は、保定へ後退しつつある第37師と北平に残留する第132師麾下の独立第27旅くらいで激戦という状況ではなかったと思われます。実際、日本軍の8月11日の発表でも8月3日正午までに北平西方地区では得た戦果は、発見死体150、武装解除4000*8で、死体については通州から下がってきた冀東保安隊の死体を指しており、29日の戦果ではありません。武装解除にしてもおそらく30日以降、北苑の独立第39旅の武装解除と同じ時期と考えられますので、29日の西苑について日本側資料だけでも戦闘らしい戦闘はほとんどなかったのではないかと思われます。

日本側の資料には見られないものの中国側の資料には、29日の北苑の戦闘について記載されています。日本軍独立混成第11旅団の攻撃は29日午前8時から開始され、黄寺を守っていた冀北保安隊(石友三)は18時ごろに黄寺を日本軍に占領され、北苑を守っていた独立第39旅(阮玄武)も北平城に撤退しています。独立第39旅は31日に北苑に戻り、日本軍の武装解除を受けています*9。日本側の記述では、石友三や阮玄武は最初から戦意なく日本側と裏取引することを求めてきた、といったものが多いのですが、実際のところはどうなのか微妙です。当の宋哲元でさえ、この時点で対日戦争をどの程度現実的に意識していたかと言える状況ですから、その下の下級指揮官としては和戦両方を踏まえて日本側とのパイプを必要としたのは間違いなく、それに伴う交渉を日本側が裏取引の申し出と解釈したのではないかと思います。この武装解除の後も、石友三や阮玄武は国民政府軍側に立って戦っています。
ただし、石友三については遊撃戦を展開する中で八路軍と対立し、日本側に寝返ったりしたため評判が悪いのも確かです*10

いずれにせよ、南苑の戦闘に比べて、北苑・西苑の戦闘はそれほど大規模なものではなかったのは確かでしょう。

天津の戦闘・天津爆撃

天津は支那駐屯軍司令部の所在地であり、7月下旬の時点で天津は朝鮮軍第20師団などの日本軍も展開していましたが、主力は北平攻撃のため天津を離れており、29日時点では第20師団麾下の第79連隊の5個小隊*11くらいしかいませんでした。天津は外国利権が多く存在する港湾都市で、日本軍側は天津市内での戦闘については避けたいと考えていましたが、それは日本側の事情に過ぎず、郎坊事件以降、絶え間なく圧力をかけ続ける日本軍に対し、天津付近の中国軍の反感が高まっていました。
さらに天津を守備範囲としていた中国軍第38師(張自忠)は、まさに郎坊で日本軍に攻撃された部隊であり、28日の南苑の戦闘で日本軍と戦った部隊でもあります。28日時点で天津付近に終結しつつあった第38師の将兵が天津の日本軍を攻撃する企図を持つのは当然でしょう(まして、日本軍側は最後通牒すら発しています)。

天津の戦闘は29日午前1時から第38師第228団、独立第26旅第678団及び保安隊により開始されます。目標は海光寺兵営、飛行場、大倉農場、停車場、鐘紡工場、糧秣集積所等です。海光寺兵営南方地区、鐘紡工場、糧秣集積所への攻撃は早々に撃退されましたが、飛行場と天津東站停車場に対する攻撃は激しく、日本軍側は飛行第31戦隊による爆撃で中国軍に反撃しました。この天津の戦闘の際の爆撃は、日本でも号外が流され、国際的にも問題になる重大事で、29日の飛行第31戦隊による爆撃では復旦大学が破壊され、翌30日の飛行第6大隊による爆撃では南開大学が破壊されています*12
制空権を日本側に押さえられている中国軍側は昼間の行動が制限されたものの、29日中は積極的に攻撃を続けています。しかし翌30日午後には後退を開始しました。飛行第6大隊による南開大学爆撃は、戦闘の帰趨がほとんど確定した30日になって行われ、日本軍側は「掃討」と称しました。
日本の陸軍省新聞班が発表した「平津地方の掃蕩」第四三号(昭一二・八・一一)の記述です。

 三十日朝来市内は漸次静穏に帰し、切迫してゐた東站停車場の状況も緩和せられ、午後には同地附近の支那兵は撤退を開始した。爾後天津部隊は支那街の掃蕩を実施し、我が飛行隊も引続き支那軍の巣窟たる諸建築物を爆撃したので、支那軍は逐次天津南方へ撤退を開始し、馬廠方面に集結中の様である。天津市内の掃蕩は三十一日殆ど終了した。

http://binder.gozaru.jp/043-pe.htm

7月29日の北平・天津付近の状況

通州事件が起きた7月29日の時点では、まだ北平や天津で日中両軍が戦闘中であり、上に挙げませんでしたが、塘沽でも29日から30日にかけて戦闘が続いていました。日本軍が北平・天津の主要部を制圧して戦闘が終結するのは7月31日です。
”日本側で言われる冀東保安隊は、中国側のデマ宣伝に騙されて寝返った”という説は、こういった事情を勘案すると的外れであることがわかります。一方で、よく言われる日本軍による誤爆原因説も決起の理由を説明するには不十分でしょう。
冀東保安隊反乱軍を率いた張慶余、張硯田らは、それなりに情勢を判断した上で決起し行動したと考えるべきだと思います。

*1:まとめきれなかった・・・

*2:詳細は以下に詳しい http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20110203/1296755661

*3:対象とする部隊によって異なる

*4:趙登禹は第132師師長ですが、第132師の主力は北平から100km以上南方の任丘、河間や、300km以上南方で河南省との省境に近い広平や大名に展開しており、北平付近にいたのは独立第27旅くらい

*5:7月上旬時点で第112旅と第114旅は天津付近、第113旅は郎坊、独立第26旅は天津のさらに南方の馬廠にあり、南苑にいたのは第113旅の第225団と第114旅の第226団の2個団、7月下旬の時点ではせいぜい第114旅が集結した程度

*6:http://binder.gozaru.jp/043-pe.htm

*7:日本軍の1937年8月11日の発表では、8月3日正午までに北平西方地区で第132師所属の約4000名を武装解除したとあります

*8:「平津地方の掃蕩」第四三号(昭一二・八・一一)http://binder.gozaru.jp/043-pe.htm

*9:「平津作戦」(中国語)http://www.unitedcn.com/01zgzz/22kangzhang/new_page_1087.htm

*10:なお、石友三は1928年に少林寺を焼き払うなどの自らの評判を悪くする実績には事欠かない人物でもあります。参照)「石友三、少林寺を焼く(二八火厄)」http://shaolin-net.com/yanjiu/lishi_2.html

*11:1000人程度か?(2011/7/21訂正)5個中隊と勘違い。5個小隊なら200〜300人程度。

*12:戦争の拠点・浜松(二)中国侵略戦争と浜松陸軍航空爆撃隊「1 河北省・天津」http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/warsitehama/02china.html