通州事件/通州起義

通州事件は、1937年7月29日に起きた冀東防共自治政府所属の保安隊が国民政府側に起って反乱を起こした際、通州城内に居住していた日本人・朝鮮人の民間人を殺害した事件です。犠牲者数は200人強で、大虐殺と言って構わないレベルですが、通州事件の5年前に起きた平頂山事件(犠牲者数:400〜3000人)*1通州事件の5ヵ月後に起きた南京事件(犠牲者数:数千人〜数十万人)に比べると小規模な事件と言えます。
中国側では、通州起義あるいは通州反正と呼び、日本の傀儡政府の下から起ち上がって、日本の侵略軍と戦うために中国軍に参加した、と言った肯定的な評価をしています。
日本側は民間人が虐殺されたことのみを強調し前後の状況を無視する一方、中国側は日本の侵略に際し傀儡軍であることに甘んじず立ち上がったことを強調しその際に生じた民間人犠牲者については無視しています。
日本側、特に右翼やネトウヨなど歴史修正主義者による通州事件の取り上げ方は、虐殺の手段を著しく誇張したり、最初から民間人を虐殺することを狙っていたことにしたり、とかなり虚構の混じった誇張になっています。利用している資料は、ほとんどが1937年8月以降の新聞報道や東京裁判時の日本軍人による弁明、真偽不明の第三者による回想録です。

通州事件は戦後隠された?

これはよく言われていることで、ネットでも散々に流布されていますが、都市伝説です。
通州事件については、日中戦争について多少でも詳しく書いている本ならほとんど間違いなく言及されており、「隠された」などとはとても言えません。
教科書には載っていないかも知れませんが、教科書の場合は日中戦争に触れている部分自体、それほど多くはありませんから、重要性の低い事件が記載されていなくても別に陰謀論を持ち出すようなことではありません。
露出が少ないというならむしろ、以前書いた廠窖虐殺事件 - 誰かの妄想・はてな版の方がよほど「隠されている」と言える状況でしょう。
また、従軍慰安婦問題も1990年代にクローズアップされるまで、ほとんど「隠されて」きたと言えると思います。

通州事件の歴史的な意味

教科書に載らないのは、通州事件の意味がそれほど大きくないからと思いますが、では通州事件に歴史的な意味はないかというとそうでもありません。

日本国内の反中世論を刺激し、戦争支持へと傾けた

要は国内向けプロパガンダとしての意味です。
日本版「リメンバー・パールハーバー」と言えばわかりやすいかもしれません。
パールハーバーと異なるのは、通州事件を起こした部隊が、国民政府軍ではなく日本の傀儡政権の保安隊だった点です。このため、日本軍当局は一時通州事件の報道を見合わせようとも考え、隠せないとわかると、「保安隊とせずに中国人の部隊にしてくれ」(橋本秀信中佐・支那駐屯軍第3課長)*2と加害者を曖昧にして報道しました。
もちろん、「中国人の部隊」と表現したとしても、記事をちゃんと読めば冀東政府の保安隊であることはわかりますから、日本国内では冀東政府主席の殷汝耕にまで非難の矛先が向いています。

いずれにせよ、虚実取り混ぜた残虐報道の結果、日本国内の中国への反感・偏見・蔑視は助長され、日本が対中戦争を推進するための世論が形成されたわけです。

メディアが戦争を煽った一例と言え、その意味では、通州事件は歴史的な事件と言えます。

戦争犯罪であることは事実

通州事件が日本の歴史修正主義者に利用されて過剰に残虐性が訴えられていることは事実ですが、一方で戦争犯罪であることもまた事実です。

通州が日本の中国侵略の拠点であったこと、日本の作った傀儡政権・冀東防共自治政府の首都であったこと、冀東政府を通じた密輸によって中国が莫大な被害を蒙っていたこと、密売品の中には阿片などの麻薬が含まれていたこと、阿片の売人や日本の大陸浪人、売春業者が多数通州に居住していたこと、など日本の大陸政策に起因する多くの問題があったことは確かですが、女性や子どもを巻き込んだ大規模な殺害が冀東政府保安隊やそれを支援する中国人によって為されたことの罪は罪として存在します。

通州事件の犠牲者に対しては、厳しい見方もあります。

川合貞吉『或る革命家の回想』より
 それから、話が七月に起きた中国人による日本人虐殺の通州事件に及ぶと、
「あれは君、支那民族の怒りの姿だよ、眠れる獅子が目を醒まして咆哮した姿だ。冀東地域へ入りこんでいる日本人に碌な奴はいない。淫売、破落戸(ごろつき)、事件屋 ― そんな連中が兵隊の威力をかりて威張り散らし、悪辣極まることをして土着民を絞り虐待しているんだ。そういう政策を押し進めている日本の民度の低さに罪があるんだ」
と、尾崎は悲しそうな顔をした。(P300)

http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu1.html

尾崎の「冀東地域へ入りこんでいる日本人に碌な奴はいない。淫売、破落戸(ごろつき)、事件屋 ― そんな連中が兵隊の威力をかりて威張り散らし、悪辣極まることをして土着民を絞り虐待しているんだ。」という発言は一面では真実でしょうし、日本が通州事件を利用して中国侵略を正当化していることを前提にした反戦論であることは考慮すべきだとは思います。
しかし、現在の視点から見る場合、「淫売、破落戸(ごろつき)、事件屋」だとしても殺されても構わないとは言えません。日本人が中国人から恨みを買った一因であることを踏まえつつ、事件について考えることは重要でしょう。

事件の全体像

通州事件について調べようとすると、ネット上にはネトウヨによるほとんど判で押したように同じような内容の記述ばかりで、有用な情報はなかなか得られません。これらの記述の特徴として、個々の殺害手法ばかり取り上げ、その残虐性を強調するばかりで事件の全体像を俯瞰で見ることができない点が挙げられます。ひどいのになると、同じ場所での殺害について、証言者を変えて記述し、まるで別々の場所での殺害であるかのように重複して書き連ねているものまであります。
また、当然知りたいはずの通州に駐留していた日本軍や通州付近にいた日本軍の動向、事件の経過やその後の状況などについても有用な情報はネット上ではほとんど見つけられません。
残虐性を強調するネット情報のもう一つの特徴は、ほとんど同じソースを使っている点です。これらは別にエントリーを上げたいと思いますが、大元のソースは事件直後の日本側の報道に行き着きます。当時の報道は、事件の詳細部分について記者の想像が含まれていることも多く、殺害手口などについての信憑性は高くありません。


ネット上で事件全体について比較的よくまとめていると言えるのが以下の記事です。

戦史の説明

 では、「通州事件」とはどんな事件だったのか。
 まず、防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書・支那事変陸軍作戦1』(1975年)の記述を見ましょう。
 「29日の2時ころ、通州冀東(きとう)保安隊約3000が突如兵変を起こし、殷汝耕(いんじょこう)を捕らえ、日本軍守備隊を攻撃するとともに特務機関及び日本人居留民を襲撃した。このため特務機関員のほとんど全員が戦死し、在留邦人385名のうち223名が虐殺された。……27日の戦闘の際、関東軍飛行隊が保安隊兵舎を誤爆したのを憤激し、かつ第29軍戦勝の宣伝を信じて反乱を起こし、冀察当局から賞与を得ようとしたものであった」
 「冀東保安隊」は、「冀東政権」の殷汝耕長官に対し反乱をおこすとともに、日本人守備隊や特務機関員だけでなく、日本人居留民も襲撃しました。そのため、女性や子供を含む非戦闘員が犠牲になる痛ましい事件となったのは事実です。
 しかし、ここで見ておくべきことは、中国側の「冀東保安隊」という軍隊の性格です。これは、蒋介石政権=国民政府の軍隊でも中国共産党の阻織でもなく、「冀東防共自治政府」という日本のかいらい政権の部隊でした。つまり、日本の支配下にある勢力内部の軍隊です。その兵舎を中国第29軍と交戦中の関東軍飛行隊が「誤爆」したことがきっかけで発生したのが「通州事件」だったとされいます。


冀東政権とは

 元々、「通州事件」の起きた中国河北省東部一円では、1935年11月、反国民党親日派の「冀東防共自治委員会」というかいらい政権が成立し、同年12月以降は「冀東防共白治政府」を名のりました。
 これは、日本が武力を背景に「満州国」の安全と資源・市場の確保をめざし、華北5省を国民政府から分離してみずからの支配下に編入しようという侵略政策(華北分離工作)の一環でした。この「冀東政権」を足場に、日本は中国全土への密貿易やアヘン密売を行って中国経済を混乱させ、抗日勢力への掃討作戦を展開していました。
 そして、盧溝橋事件後の37年7月28日、日本軍は華北一帯で総政撃を開始しました。これらを抜きに「通州事件」は考えられません。「冀東保安隊」に抗日勢力の影響が広がっていたとの指摘もありますが、そうだったにせよ、事件の基本性格は日本のかいらい政権の部隊が起こした反乱であり、日本による支配の矛盾のあらわれでした。
 「通州事件」のこうした経過は、関係者の証言によっても明らかです。


外交官の回想

 事件後、外交交渉を担当した当時の北京大使館参事官・森島守人氏は、戦後出版した回想録『陰謀・暗殺・軍刀』(岩波新書、1950年)で、次のように書いています。
 「中国部隊を掃蕩(そうとう)するため出動したわが飛行部隊が、誤って一弾を冀東防共自治政府麾下の、すなわちわが方に属していた保安隊の上に落すと、保安隊では自分たちを攻撃したものと早合点して、さきんじて邦人を惨殺したのが真相で、……一にわが陸軍の責任に帰すべきものであった」
 森島氏は事件の第一の責任が日本陸軍にあったと明言します。もちろん「冀東保安隊」による市民の無差別殺りくは国際法上容認できませんが、その問題も交渉での解決が図られました。氏の回想は続きます。
 「現地の軍側諸機関の意向を打診したうえ、中央へ請訓するなどの手つづきを一切やめて、私かぎりの責任で、殷汝耕不在中の責任者、池宗墨政務庁長と話合を進めた結果、正式謝罪、慰藉(いしゃ)金の支払、冀東防共白治政府が邦人遭難の原地域を無償で提供して、同政府の手で慰霊塔を建設することの3条件で、年内に解決した」
 こうして「通州事件」は、「冀東政権」の謝罪と慰藉金支払い、慰霊塔建設によって「解決」をみることになりました。森島氏は「事件が日本軍の怠慢に起因した関係」から「損害賠償」のかわりに「慰藉金」となったこと、金額も「社会通念の許す範囲に限定した」ことなど、その経緯を具体的に記しています。


意図的な議論

 森島氏の回想からも明らかなように、「通州事件」の責任を中国側に一方的に押しつける議論は当時から成り立たないものでした。
  ”靖国史観”派は「通州事件」の日本人居留民の犠牲だけを強調し、中国側の暴挙を言いたてますが、それは史実をゆがめる意図的な議論というべきです。

(土井洋彦 党学術・文化委員会)−2005.8.18「しんぶん赤旗」評論

http://tabakusoru.hahaue.com/shiriyo.rekishi.2005081800.html

この説明は、事件直前の誤爆事件や事件後の外交解決、冀東政府の性格など、押さえるべきところは押さえています。
しかし、通州事件の全体像としては比較的よくわかりますが、大枠に過ぎてやや事件の詳細に欠けるのが難点です。

通州事件についてもう少し詳細な流れを次回述べたいと思います。