天皇崇拝の時代に起きた“小”事件・桐生市鹵簿誤導事件

十五年戦争の開幕 (昭和の歴史 4)」より。
鹵簿とは、儀仗を備えた行幸・行啓の行列のことを言います。

(P295-298)
桐生市鹵簿誤導事件 特殊な教団とは結びついていない国体観念の普通のあり方はどのようなものだったろうか。三四年一一月、群馬・栃木・埼玉の三県下で陸軍特別大演習がおこなわれた機会に、天皇桐生市などへ行幸することとなった。桐生市は全市あげて準備を大わらわですすめた。天皇に校内を巡覧されることとなった桐生高等工業学校では、早くも六月から準備にとりかかり、行事のまだ二か月以上前の九月一一日以降は寄宿寮での刺身などの生物料理を禁止し、チフス予防注射や赤痢予防ワクチンをはじめ、健康診断を再三おこない、行内の清掃・消毒に努め、奉迎の練習をくり返し、万全の準備を終えて行幸を迎えた。
 一一月一六日朝、御召列車が桐生駅に着き、分きざみで決められている行事日程にしたがって、鹵簿はまず桐生西尋常小学校へ向かった。ところが、先駆車に乗っていた群馬県警部本多重平・見城甲五郎は、極度の緊張に加え、奉拝者で埋もれた沿道の状況が日常とは一変していたため、途中で曲り角を間違え―運転手が間違えたのを見逃したか、間違った指示をあたえたかし―桐生西小の次に行幸が予定されていた桐生高工へ先に鹵簿を導き、予定より三〇分も早く到着してしまった。
 桐生高工では、生徒は校門付近に一応整列していたものの、まだうろうろしているものもいた。校長西田博太郎は本館の二階にいた。そこへ思いもよらず鹵簿が出現したのである。校門のただならぬ気配と、配属将校藤田徳治中佐の「最敬礼」という裂帛の声に、西田は異変をさとった。西田は転がるように二階からかけおりたが、どのようにおりたか自分では記憶がない。とにかく西田が玄関に立ったときには、すでに天皇の車は玄関前に着いていた。しかし天皇はまだ車の中であった。先駆車の間違いに気づいた運転手が気転をきかせてわざとスピードを落としたため、行幸先の玄関に責任者が出迎えていなかったという前代未聞の失態だけはかろうじて免れたのである。西田は、桐生高工『行幸記念誌』に収められている一一月一九日の講演で、

 私が玄関御出迎の間に合ったのは、誠に奇蹟的でありまして、私が一秒遅れれば、大変な事件が起って居ったのであります。・・・全く心臓が破裂しそうでした。随分ふるへて倒れさうにも思はれ、非常なる胸騒ぎが致しましたが、ぐっと丹田に力を籠め、漸く冷静になり、重大任務を果すことが出来ました。

と述べている。
 ともかく桐生市行幸は終わり、天皇は一六日正午前の列車で次の行幸足利市へ向かった。しかし先駆車の運転手は精神錯乱状態となり、両警部は自宅で監視のもとに謹慎した。本多は先駆の時の制服のまま端座し、御召列車が前橋を出る一八日朝まで一睡もしなかった。その一八日の朝、本多は妻子を無理に奉送に向かわせ、監視の二名にも「自分に代って奉送してくれ」と再三懇願して家の表に出し、一人になると、御召列車の発車を知らせる花火と同時に、日本刀でのどを切り、自殺をはかった(一命はとりとめた)。
 桐生市長・市会議長・織物同業組合長から一一月二一日連名で市民に「謹告書」は発せられ、翌二二日、御召列車が桐生駅に着いた自国である午前九時四一分に、全市民がお詫びの黙禱をささげることとした。当日はサイレンを合図に、官庁・学校・会社・家庭から通行人にいたるまで、全市民がいっせいに宮城の方角にむかって一分間の黙禱をし、市長・市会議長は宮内省へ出頭して、お詫びの言上執奏を願った。また県知事以下の関係者は懲戒処分をうけた。

宗教国家ですね。
訪問先の順番を間違えただけで日本刀で首を切って自殺をはかるのも異常ですが、「全市民がお詫びの黙禱」というのもわけがわかりません。
こんな時代に戻ってほしくはありませんねぇ