日露戦争から第3次日韓協約に至るまでの簡単な流れ

日本軍は1904年2月の日露戦争開戦と同時に局外中立を宣言していた大韓帝国に上陸し漢城に進駐。
日本軍が漢城に駐屯している状況下で、韓国政府に対して日韓議定書を強要しました(1904年2月23日)。
日韓議定書は、大韓帝国領土内を日本軍が自由に利用できるという一方的に日本に有利な協定です*1

1904年3月10日、日本軍は韓国駐箚軍を編制して韓国を軍事占領します。
“ロシアから韓国を守るため”等ではないことは、1904年9月20日の訓令*2を見れば明らかで、そこには「駐箚軍隊の配置は実際の情況に応ずべきものなりと雖も京城には常に成るべく多くの軍隊を駐箚せしむるを要す」とあり、警戒対象が韓国であったことを示唆しています。

1904年8月22日には第1次日韓協約で大韓帝国は外交権を著しく制限され、その後の1905年1月に日本政府は独島(竹島)の領土編入閣議決定しますが、日本軍に首都・漢城を占領されている韓国政府にはこれに抗議する余力がありませんでした。

日露戦争は1905年9月5日のポーツマス条約によって終結しますが韓国駐箚軍はなおも韓国に駐留を続けます。
韓国駐箚軍の占領下にあった韓国政府は第2次日韓協約にて外交権を失ったのが1905年11月17日です。

大韓帝国は自国の独立が大日本帝国によって次々と奪われていく中で抵抗はしなかったのかというと、当然抵抗しています。しかし、何といっても皇帝のいる漢城が日本軍によって占領されている状態ですから政府軍として統一された抵抗ができるわけもなく、日本の侵略に反対する義勇軍という形で散発的に生じています。

韓国の抗日義勇軍を日本側は「暴徒」と呼び、韓国統監の命令により韓国駐箚軍が鎮圧しています。
1906年5月に忠清南道洪州城に籠る義軍を日本軍歩兵2個中隊が攻撃、市街戦を展開し、60人を殺害し127人を捕縛しています*3
もし日本が韓国の独立を真面目に考えていたなら韓国軍の強化を支援し自ら治安維持できるように支援したでしょうが、日本の本心は韓国を植民地にすることにありましたから、韓国軍はむしろ邪魔な存在でした。
同時に、日本の侵略に抵抗する大韓帝国皇帝も日本にとっては邪魔であり、1907年7月18日には大韓帝国皇帝高宗を退位に追い込み、7月24日の第3次日韓協約へと至ります。

そして1907年7月31日、日本側は大韓帝国の軍隊を解体してしまいます*4。日本軍は韓国軍の抵抗を予期して事前に武器庫や弾薬庫に衛兵を配備するなどしています*5が、それでも抵抗する部隊が出ています*6

その後、1907年中に日本側が「暴徒」と呼ぶ義軍鎮圧の記録が多数残っています*7

それから3年後、日本側が合法だと主張する韓国併合条約により大韓帝国は滅亡します。
日露戦争に乗じて軍事占領され、外交権を奪われ、皇帝を退位させられ、軍隊を解散させられ、その上で結ばれた条約が韓国併合条約なわけです。

日本側は合法だと主張していますが、どうひいき目に見ても、“合法ドラッグ”と同じ意味での「合法」か、せいぜい脱法行為とでも呼ぶべきでしょうね。



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*1:“日本に韓国を防衛する義務があるため、片務的ではない”と主張する人もいますが、ロシアに対して宣戦布告して戦争を起こしているのは日本ですから、隣家に押し入りそのさらに隣家に喧嘩を売って騒動を起こしておいて言うセリフではありません。

*2:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B07090619800、日露戦役ノ際韓国駐箚軍司令部編成一件(5-2-2-0-33)(外務省外交史料館)」 P5/19

*3:https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001744655

*4:https://ameblo.jp/scopedog/entry-10087502150.html

*5:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03022884200、密大日記 明治40年自8月至9月(防衛省防衛研究所)」

*6:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03022880800、密大日記 明治40年自8月至9月(防衛省防衛研究所)」

*7:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03022887600、密大日記 明治40年10月(防衛省防衛研究所)」、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03022887000、密大日記 明治40年10月(防衛省防衛研究所)」