南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?にマジレスしてみる


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【中国ブログ】南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?

に対するマジレスです。
それ以上でもそれ以下でもありません。


南京事件の一般的な解釈では、事件発生時期は1937年12月の南京陥落から1938年3月くらいまで、といった所だろうか。
まあ、もっと短くとる場合もあるし、南京陥落以前も含む場合もあるだろうが、今回のエントリでは特に重要ではない。

単純に1937年12月から1938年3月までの中国軍の情勢について、である。

華北

盧溝橋事件・北平*1陥落(1937年7月)以降、8月には宋哲元の第29軍などの中国軍は北平・天津近郊から敗走。
日本軍は北支方面軍を編成し体勢を整え、9月に侵攻再開。既に上海方面で本格的な武力衝突にいたっていた国民党政府は、全国的に戦時体制に移行し、華北で日本軍と対峙する部隊として、第1戦区、第2戦区を編成している。

1937年9月〜12月にかけて、第1戦区は日本軍北支方面軍麾下の第1軍・第2軍の侵攻を受け、平漢鉄道沿いに後退。

第2戦区(司令長官:閻錫山)は、山西省太原で日本軍と交戦するも(1937年10月)、11月には敗退し太原は陥落。第2戦区麾下となっていた中国共産党八路軍(第18集団軍)は、太原攻防戦の直前の平型関の防衛で活躍し、太原陥落後も河北省西部〜山西省東部に展開して、日本軍北支方面軍と戦闘状態にあった。

山東省を防衛する中国第3集団軍(韓復腧)は、ほとんど抵抗せずに山東省の済南より撤退している。司令官の韓復腧は1938年1月に軍法会議で裁かれ処刑されている。

1937年12月の南京陥落以後、日本軍は北平と南京を陸上で結ぶため、徐州への侵攻を開始する。

北からの日本軍の侵攻に対し、中国軍は台児荘(1938年3月)などで局所的な勝利を収めているものの、最終的には徐州よりの撤退を余儀なくされている(1938年5月)。*2

華中

第3戦区は上海戦・南京戦と激戦を繰り返した結果、南京陥落後はかなりの損害を受けている。
麾下の第21集団軍は、長江北岸に移動し、1938年1月以降は南京から徐州に向けて北上しつつあった日本軍第13師団と対峙している。
上海から杭州方面に退却した第10集団軍は杭州・太湖間で、小部隊に分かれての交戦中。
第19集団軍も南京の南方、宣城(安徽省)で、小部隊での遊撃戦を展開。
第23集団軍は蕪湖・貴池間に展開。

いずれも南京包囲網を形成した日本軍の側面・後方を脅かす展開であり、南京の南西から南東にかけて日本軍の陸上補給路では小規模な戦闘が起きている。
とは言え、大きな脅威とは言えないため、日本軍は、南京戦までに大きな損害を受けていた部隊を警備・掃討にあてている(第101師団など)。

南京近郊〜徐州

南京近郊に限って言えば、中国軍は上海戦から南京戦までに膨大な損害を受けていたため、日本軍に対して正面決戦を挑めるような状況ではなかった。このため、小規模な部隊での機動戦で、日本軍の陸上補給路を脅かす程度の戦闘しかできなかった。

さらに南京事件の発生時期である1937年12月から1938年3月ごろまでは、中国軍主力は徐州に展開し徐州攻略・野戦軍の包囲撃滅を狙う日本軍と戦闘状態にあった。

このため、南京近郊の日本軍も徐州方面への侵攻以外は、本格的な侵攻作戦を行っていない。また、南京より上流の長江には、中国軍の敷設した機雷や河川艦艇が潜んでおり、日本軍はまだ制海権を得ていない。


珍説

珍説としては、南京事件八路軍が関与していたかのような主張があるが、八路軍が活動したのは華北の戦場であって南京のある華中ではない。
華中の共産党系の軍隊としては、新四軍があるが軍としての編成は南京陥落後*3であり、1937年12月時点での兵力は1万人程度にすぎないので、新四軍が関与したというのも無理がある*4

*1:現在の北京

*2:しかし、日本軍の方も、中国軍主力(李宗仁)を取り逃がし、敵野戦軍の撃破という戦略目的は達成できていない。

*3:それまでの雑多な部隊の統合は1937年10月

*4:当初の新四軍は、共産党色が弱かったと言う話もある。