百団大戦における日本軍損害評価の差の疑問

百団大戦は、日本軍占領下の華北一帯で1940年8月20日から12月5日まで続いた中共八路軍の一大攻勢です。

とは言っても、大軍同士がぶつかり合う会戦形式ではなく、小規模の遊撃隊を多数編成し、それらによる広範囲での日本軍軍事施設*1に対する同時攻撃です。
当然ながら守備隊との間に戦闘が起こり、反撃を開始した日本軍との間の戦闘もありました*2

参考www.pekinshuho.com

戦闘の回数などは百団大戦中の3ヶ月半の間に約1800回なので、前年1939年中の戦闘回数1800回に匹敵します。頻度としては3〜4倍です。


さて、百団大戦については調べたいことが色々あるのですが、とりあえず一点。

日本軍の損害は?

中国側の発表では、日本軍死傷者20645人、傀儡軍死傷者5155人、一方の八路軍も大きな損害を受け2.2万人ほどの死傷者を出したとのこと*3
一方、秦郁彦氏は「日中戦争史」の中で「(実際は約四千)」*4とのみ記載し、これを受けて日本軍は大した損害を出していないと主張する向きもあります。
また、石島紀之氏は「中国抗日戦争史」の中で、1940年の北支那方面軍の死傷者数17842人と比較して「日本軍側の死傷者数は過大評価であろう」と述べています。


もとより、百団大戦での八路軍は基本的に占領確保することを目的としていないため戦果確認が容易ではないし、自己の戦果を過大評価しがちであるのはどこの軍隊でも同じことなのだが、百団大戦における評価のずれをそれだけで説明してよいものか?

で、気になったのが、百団大戦で八路軍と抗戦したのは、日本軍と傀儡軍だけなのか?ということ。後半の八路軍討伐の主体は当然日本軍と傀儡軍であったろうが、鉄道を守備していたのは日本軍や傀儡軍の他に半官半民の警備隊があった。

華北交通株式会社警務局

華北交通株式会社(北交、北支那交通株式会社)は1939年に設立された日本の国策会社で、黄河以北長城以南の鉄道を管理運営した。この華北交通には警務局という部門があり、平時には沿線の警察権を持ち、戦時には防衛戦闘も行っている。
華北交通の従業員は1939年当初は7.5万人で*5終戦時には18万人だったとのこと*6。そのうちのどのくらいが警務局だったかは判然としない*7

この警務局の指揮官層は日本人が占めており、軍人上がりが多く、軍隊同様の武装もしている。防衛戦闘でそれなりの犠牲者も出しており、戦後恩給対象とすべきか国会で議論されている*8

では、どのくらいが犠牲になったかと言うと、(おそらく華北交通設立以前からの合計として)1937年7月から1939年6月までの間に390人が死亡、うち120名は戦死とされている((神戸大学図書館 新聞記事文庫 交通(07-144)満州日日新聞 1939.6.3(昭和14)))。

百団大戦で、これら警務局の人員がどのていど死傷したかについてはよくわからない(社史に載ってるかも知れないが、入手できていないので・・・)。
アジ歴で「戦時月報の件(2)」(レファレンスコード:C04122600100)に、鉄路学院学生(路警)を派遣した旨の記載をいくつか見つけたが、全体像についてもよくわからない。


ちなみに、百団大戦の第1次攻勢の直後1940年10月に華北交通は職制を変更し、鉄路警務学院を中央鉄路学院より独立させている。

アジ歴
華北交通株式会社職制改正に関する件
【 階層 】防衛省防衛研究所陸軍省大日記>陸支機密・密・普大日記>陸支密大日記>陸支密大日記>昭和15年>昭和15年 「陸支密大日記 第38号 1/2」
【 レファレンスコード 】 C04122486500

8.鉄路警務学院の新設
警務関係教育の重要性に鑑み中央鉄路学院より独立の部署と為す

おそらくは、百団大戦がきっかけになったのだろう。

路警は日本から見れば民間人、中国から見れば軍人

つまるところ、そういうことではないかな?

完全武装した鉄路学院学生(路警)を、日本軍や傀儡軍と区別する必然性は八路軍側にはないだろう。
したがって、日本軍死傷者20645人、傀儡軍死傷者5155人には、鉄路学院学生(路警)も含まれていると思われ、日本軍側の記録だけで、中共の誇張と決め付けることはできないように思う。

*1:橋・鉄道など

*2:晋中作戦

*3:「中国抗日軍事史」P263

*4:P304

*5:日本人1.8万、中国人5.7万

*6:http://www.jrt.gr.jp/diary/nikki_09.html

*7:社史には載ってるかも?

*8:法律をそのまま解釈すれば、外国特殊法人の社員扱いで、日本軍ではない、という理屈になる。