李法卿「七分発展、二分応付国民党、一分抗日」説に関する件。

日本敗戦後の国共内戦における長春包囲戦に巻き込まれ苛酷な体験をした遠藤誉氏は、その経験のためか強烈な反共主義者です。長春包囲戦で民間人が飢餓に苦しんだ原因のひとつに篭城する国民党軍が食料を独占していたという点もあるのですが、遠藤氏の怒りの矛先は中共にのみ向けられています。
それはそれとして、日中戦争中の中共に対する中傷としてよく用いられるものに、毛沢東が1937年8月22日の洛川会議で「七分発展、二分応付国民党、一分抗日」の方針を打ち出した、というものがあります。
遠藤氏がこんな風に紹介している内容です。

◆兵力の10%しか抗日戦争に使ってはならないと命令した毛沢東

1937年7月7日、北京の郊外で盧溝橋事件が起き日中全面戦争に突入した。中国では「7月7日」にちなんで、この事件を「七七事変」と称する。
前年1936年の夏以降、毛沢東は国民党側の張学良を説得し、蒋介石国共合作(国民党と共産党の合作)を呼び掛けるように働きかけていた。なぜなら蒋介石・国民党軍による中共掃討作戦があまりに激しくて、このままでは中共は滅亡の危機にあったからだ。
中共側スパイに説得され、中共側に半ば寝返った張学良は、同年12月12日、西安に来た蒋介石拉致監禁して国共合作を呑ませる(西安事変)。
その結果、中共軍は国民党軍に編制され、通称「八路軍」と「新四軍」になり、国民党政府から軍費をもらい、生き延びることができた。
七七事変が起きた一カ月ほど後の8月22日、中共中央は陝西省洛川(らくせん)で中共中央政治局拡大会議を開いた。これを「洛川会議」と称する。洛川会議で表面上は「中国共産党抗日十大綱領」なるものを決議発布しているが、同時に「極秘命令」を毛沢東は出している。
これはあまりに極秘であるため文字化せず、口頭でのみ部隊に伝えられたのだが、それを口外した者がいた。
その人の名は李法卿(きょう)。
八路軍(第十八集団軍)独立第一師楊成武部騎兵連共産支部書記という身分にあった八路軍の幹部だ。1940年になって八路軍から逃げ出した後に語ったものだとされている。八路軍が陝北を出発しようとしたとき、毛沢東八路軍の幹部を集めて、つぎのように指示したという。

中日の戦いは、我が党の発展にとって絶好の機会だ。われわれが決めた政策は「70%は我が党の発展のために使い、20%は(国民党との)妥協のために使う。残りの10%だけを抗日戦争のために使う」ということである。もし総部と連絡が取れなくなったような事態になっても、以下のことを守るように。この戦略は以下の三つの段階に分けることができる。
その一:(国民党との)妥協段階。この段階においては自己犠牲を以て表面上は、あたかも国民政府に服従しているようなふりをする。三民主義を唱えているようにふるまうが、しかし実際上は我が党の生存発展を覆い隠すためだ。
その二:競争段階。2,3年の時間を使って、我が党の政治と武力の基礎を築き、国民党政府に対抗でき、かつ国民政府を破壊できる段階に達するまで、この戦いを継続すること。同時に、国民党軍の黄河以北の勢力を消滅させよ!
その三:進撃段階。この段階に至ると、華中地区に深く入り込み根拠地を創って、中央軍(国民党軍)の各地区における交通手段を切断し、彼らが孤立して互いに連携できないように持って行く。これは我が党の反撃の力が十分に熟成するまで行い続ける。そののち最後に国民党の手中から指導的地位を奪うのである。

毛沢東の作戦能力はすさまじい。
本気でこれを実行させて、最終的には中共軍を勝利に導いたのだから

http://bylines.news.yahoo.co.jp/endohomare/20150803-00048092/

これだけでも疑問を覚える箇所はあります。「七分発展、二分応付国民党、一分抗日」というのは「極秘であるため文字化せず、口頭でのみ部隊に伝えられた」わけですから、李法卿の証言以外に根拠がないという点です。
1940年に李法卿が国民党側に寝返った後に明らかになったということになっていますが、李法卿が国民党側に寝返ったのが1940年、「七分発展、二分応付国民党、一分抗日」説が出たのが1943年7月発行の「共産党在中国」(華厳出版社)によるという経緯を踏まえることなく、そのまま信じるのは軽率といわざるを得ません。

参考:File:李法卿訪問記.GIF

日中戦争中の国共対立

日中戦争当初、中共軍は山西省戦役で国府軍と連携して日本軍と抗戦しましたが、山西省が日本軍に占領された以降は敵後方戦場での遊撃戦を主とした戦闘方法を取っています。1937年末から1938年初頭に華北の日本軍後方地域で遊撃区を確立し、日本軍の討伐を斥けつつ徐々に勢力を拡大していきます。中共軍主力は日本軍後方地域に展開したため、延安を中心とする陝甘寧根拠地はある意味孤立した状態になり、1938年末ごろから国府軍による攻撃が度々発生するようになります。1939年6月には、陝甘寧根拠地が国府軍によって包囲封鎖され、1939年末には大規模な侵攻作戦に発展、国府軍中共軍が激しく交戦しています。1940年に臨時協定で国共は休戦状態となりますが、李法卿が国民党側に寝返ったのがこの頃です*1
1940年後半になると国府は華中で行動していた中共の新四軍に圧力をかけ華北へ移動させようとし1941年初頭の皖南事件へと発展します。国府軍による攻撃で新四軍は壊滅的な打撃を受けますが、国府軍のこの攻撃に対して連合国は強く批判的な態度を取ります。アメリカからすれば、日本の侵略に抵抗するために支援しているにも関わらず、また日本軍の侵略により後退を繰り返しているにも関わらず、国府が内戦を優先しているようにしか見えません。
このため、蒋介石としては連合国に対して中共攻撃を正当化する根拠が必要でした。
蒋介石が再度、陝甘寧根拠地侵攻を目論んだ1943年7月に「七分発展、二分応付国民党、一分抗日」説を示した「共産党在中国」が重慶で出版されました。

「七分発展、二分応付国民党、一分抗日」説、すなわち「七二一方針」*2は、国府軍中共の陝甘寧根拠地を攻撃する際に公表され、その根拠は中共から国府に寝返った李法卿の証言のみというわけです。
なお後の国共内戦国府軍は延安を占領していますが、「七二一方針」を裏付ける文書などは見つかっていません。

もっとも「七二一方針」が国府による全くの捏造というわけでもありません。
国共対立が深刻化していた1939年頃であれば、中共がこのような方針を採っていたとしても不思議ではなく、現実問題として中共軍に対する攻撃を仕掛けてきた国府への対処を考慮すれば非難されるようなことでもありません。日本軍による中共攻撃が本格化するのは1940年の百団大戦以降ですから、1939年における「二分応付国民党、一分抗日」はありえる話です。

しかし、蒋介石や日本の反共右翼は「七二一方針」が1937年8月時点の方針だと主張しています。上述したように、1943年当時の蒋介石にとっては中共攻撃を正当化する必要があったわけで、そのためには中共が当初から抗日統一戦線に協力的ではなかったことにしたいという動機があったと言えます。それ以外に重要な点があります。
「七二一方針」に基づいて、「三つの段階」と呼んでいる部分です。

その一:(国民党との)妥協段階。この段階においては自己犠牲を以て表面上は、あたかも国民政府に服従しているようなふりをする。三民主義を唱えているようにふるまうが、しかし実際上は我が党の生存発展を覆い隠すためだ。
その二:競争段階。2,3年の時間を使って、我が党の政治と武力の基礎を築き、国民党政府に対抗でき、かつ国民政府を破壊できる段階に達するまで、この戦いを継続すること。同時に、国民党軍の黄河以北の勢力を消滅させよ!
その三:進撃段階。この段階に至ると、華中地区に深く入り込み根拠地を創って、中央軍(国民党軍)の各地区における交通手段を切断し、彼らが孤立して互いに連携できないように持って行く。これは我が党の反撃の力が十分に熟成するまで行い続ける。そののち最後に国民党の手中から指導的地位を奪うのである。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/endohomare/20150803-00048092/

この認識が1937年8月のものだとすれば、かなり不思議です。中共は1937年後半から1938年にかけて華北の日本軍後方地域に侵入して遊撃解放区を建設していくわけですが、それに関する記述が全くなく、むしろ「その三」で華中地区への進出についての言及は、まるで華北は既に中共勢力圏であるかのように思えます。要するに、1937年8月当時の戦況に合致していないわけです。
このことから、少なくとも1937年8月の洛川会議で「七二一方針」を中共が打ち出したというのは、かなり怪しい信憑性の低いものだといわざるを得ません。

これらを踏まえると、遠藤氏が「兵力の10%しか抗日戦争に使ってはならないと命令した毛沢東」と要約しているのは1943年当時の国府による反共プロパガンダ(1965年にも使用していますが)に未だに騙されているようなものです。と言うより自身の反共思想から積極的に乗っかってるような印象はありますが。