不完全に終った警察の民主化

「戦後日本の警察」広中俊雄岩波新書、1968/7/20第1刷、1970/10/30第4刷、から引用。

第二章 「民主警察」の足どり
4 刑事警察の歩み
(P123-127)
自白偏重の残存
 すでに述べたように、刑事手続きに関する新しい憲法の要請の焦点をなすものは、自白偏重の排除であった。自白をとるための拷問が常識であったとさえいえる日本の警察は、新しい憲法によって大転換を要求されることになったのである。
 しかし、この転換は遺憾ながら容易に実現されなかった。新憲法施行前に旧態依然たるものがあったことにはまだ目をつむるにせよ、新憲法施行後も、不祥事件はあとを絶っていない。最高裁判所の諸判例はそのことを示している。たとえば、昭和二十二年十月に岐阜県でおこった事件では、警察署内で被疑者が自殺をはかっており、取調べにあたった警察官自身が、手錠をはめたままでの取調べや殴打を認めていた(最高裁判所刑事判例集第五巻糾合一六八頁以下参照)。特に有名なのは、静岡県でおこった幸浦事件(昭和二十三年十一月)・二俣事件(昭和二十五年一月)・小島事件(同年五月)の場合で、これらの事件においては同一の警察官が操作に関与していたのであるが、最高裁判所で警察官の暴行による自白強要の疑いが問題にされ(最高裁判所刑事判例集第一一巻二号五五四頁以下、七巻一一号二三〇三頁以下、一二巻九号二〇〇九頁以下)、いったんは死刑の言渡のあった強盗殺人のような兇悪犯罪の嫌疑がしりぞけられ無罪に終ったのである。
 幸浦事件の一被告人は、殴られたり蹴られたりしたことを訴えたほか、焼け火箸を手や耳に押しつけられたことを訴えていて、これによる火傷を裏づけるような医師の鑑定もあったが、この幸浦事件の捜査の中心人物でった紅林という警部補は、のちに二俣事件の捜査主任となり、二俣事件の捜査方針として、幸浦事件の際のように傷の残るような取調べをしてはならぬ、傷を残さぬように取り調べをなすべきだという趣旨の訓示をしたという。これは当時の現職警察官が明らかにしたところであるが、同人の二俣事件裁判における証言によれば、二俣事件の被疑者が土蔵内で取調べをされたについては「その前に朝鮮人を調べた事があり・・・、その一人は町警察で調べ他の一人は国警で調べた・・・。その際国警の方は道場で取調べたが、ひいひいいう声が道場の裏手を通る人に聞えて具合が悪かった・・・が町警察の土蔵で調べた時には、何も外部へは物音が聞えなくて良かったとの事で・・・そのため拷問をするといった調に付ては、土蔵で取調を行うようになった」といういきさつがあった。二俣事件の被告人は、土蔵の中で警察官たちに囲まれて朝から夜中まで殴る、蹴る、くすぐる等の暴行をうけ、前後二回も気絶したがなおも尋問を続けられ、「お前などどんな事になっても自白する迄このような取調をする」だの「検事や判事の取調にも私が犯人ですといわなければ、何処迄でも行って非道い目にあわせてやる」だのという脅迫をうけたといっている。
 また、小島事件の被告人は、殴る、蹴る、膝に乗って踏みつける等の暴行をうけたといっており、負傷を裏づける証拠もあったのであるが、この小島事件に関しては、最高裁判所の判決において、「紅林警部補が主として被告人を取調べておきながら、何ゆえ自らは調書を作成せず、わざわざ望月警部補をしてこれを作成せしめるに至った(被告人の警察における供述調書は悉く望月警部補が取調べこれを録取した形をとっている。)のか理由が判然としない」と、注意すべき事実が指摘された。そういうやり方はどういう意味をもつのか。「理由が判然としない」と判決がいうのはむろん控えた表現であって、自白を強要する者と調書を作成する者とを別々にしておけば前者つまり「割り方」にゆきすぎがあっても自白調書そのものは別の者が取り調べて作ったと言い抜けられようという寸法だということは、容易に推測されよう。
 殺人や強盗殺人のような兇悪犯罪の嫌疑がかけられた者の場合にだけ不祥事がおこったわけではない。たとえば、窃盗や物価統制令違反の容疑者らを午前中から夜あるいは翌朝まで敷居の上に正座させて(正座をくずそうとすると怒声あるいは暴力によって正座を強制される)自白をさせたという例がある(昭和二十三年三月に茨城県で発生したもの、最高裁判所刑事判例集六巻三号三八七頁以下)。物理的暴力だけが問題なのではない。昭和二十六年七月には、放火の容疑者に対し刑事訴訟法の規定に反して糧食差入れの禁止がなされ、容疑者の自白はその結果と推測されるような事件が、静岡県でおこっている(同上一一巻五号一五七九頁以下)。なお、放火との関係では、被疑者の頭髪をつかんで殴ったり振りまわしたりした花巻事件(昭和二十七年十二月)があり、暴行警察官がのちに準起訴手続*1により有罪を言い渡された事案として有名である。
 しかし、とりわけ重要視すべき事件は、昭和二十七年夏の大阪・宮原操車場事件であろう。その事件につき、最高裁判所は、被告人を正座させ手錠をはめたまま取り調べて任意性のない自白をさせた疑いがあることを指摘した(最高裁判所刑事判例集二〇巻一〇号一一〇七頁以下)。これが特に重要視されるべき事件であるというゆえんは、ほかでもない。昭和二十七年の夏には、すでに他の事件に関する最高裁判所の破棄差戻判決がこの種の取調方法について警告を発していたのである。昭和二十二年に岐阜でおこった事件(既述)につき、最高裁判所は昭和二十六年八月一日の判決で、手錠をはめたままでの取調べによる自白は特段の事情がないかぎり任意性を疑われるべきであるとした。最高裁判所の判決が、子の当時はまだ警察官への警告として機能していなかった疑いがあるわけである。また、昭和二十七年三月七日の最高裁判所の判決は、警察官が被疑者を敷居に正座させて取り調べた事件(既述)において、警察官に対する自白が任意性を欠くばかりでなく、その翌日の検察官に対する自白も前日の警察における長時間の肉体的苦痛の影響をうけている(したがって任意性を欠く)疑いがあるとしていあ。宮原操車場事件の取調べにあたった警察官は、被疑者を畳の上に正座させており、正座させられた当人は、連日の暑さの中を畳の上に正座させられ、足の痛みから拒否すると三人がかりでおさえつけられたといっているが、畳の上の正座なら苦痛は生じないと警察官は考えたのであろうか。
 具体例をこれ以上あげるのは煩わしいが、要するに、かつての自白偏重がこの当時まだ根強く残っていたことは明らかである。松川事件という戦後最大の裁判問題も、自白を求める警察官の「確信過剰型的取調」―取調べにあたった警察官自身の証言を引用していえば「確信をもって」し「それが合理的であるかどうか考えない」でおこなった取調べ―によって導かれたのであった(引用は最高裁判所刑事判例集一七巻七号、一三四〇頁)。

特高警察が拷問により自白強要していたことは良く知られていますが、敗戦により民主化されたという戦後警察でも自白させるための拷問が横行していました。引用は1950年代のことで、出版が1968年ですので今から半世紀近く前のことです。
現在はさすがに傷跡を残すような暴行は避けているようですが、精神的に追い込むような拷問的手法は継続しているようですね。

*1:準起訴手続とは、警察官や検察官の職権濫用につき告訴または告発をした者から、事件が不起訴となったときに裁判所に対し事件を審判に付するよう請求する手続で、付審判決定があれば起訴があったとみなされて裁判が始められるものである。裁判例(花巻事件の場合をふくめて)につき、広中『法と裁判』(東大新書)八四頁以下参照。