歴史修正主義者の極右政治家、永眠。

極右政治家の奥野誠亮氏が亡くなりました。

これを報じる産経記事に以下のような記載があります。

2016.11.17 10:50更新

奥野誠亮元法相が死去、103歳 保守政治家の最長老

 国土庁長官だった62年5月には、国会で、先の大戦について「日本に侵略の意図はなかった」「盧溝橋事件は偶発的」などと答弁したことが批判され、閣僚を辞任した。

http://www.sankei.com/politics/news/161117/plt1611170009-n1.html

これ(昭和)「62年5月」ではなく、1988年(昭和63年)の5月です。1987年(昭和62年)5月の時点では奥野氏は国土庁長官ではありません。
そして、この奥野発言に伴う騒動に、最晩年の昭和天皇が言及したのが富田メモとして知られています。

前にもあったが どうしたのだろう
中曽根の靖国参拝もあったが
藤尾(文相)の発言。
=奥野は藤尾と違うと思うがバランス感覚の事と思う、単純な復古ではないとも。

私は或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ

1996年にはこんなことも言ってます。

本年6月4日、「明るい日本」国会議員連盟発足に際して、同連盟会長に就任した奥野誠亮元法相は、「『従軍』慰安婦はいない、商行為として行われた」、「軍は戦地で交通の便をはかったかもしれないが、強制連行はなかった」と発言し、同席した同連盟事務局長板垣正参議院議員も、「性的虐待のイメージを植え込む教科書のあり方はおかしい」などと語った。板垣議員については、これに先立つ本年5月28日の自民党総務会においても同趣旨の発言を行ったと伝えられている。

http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/1996/1996_10.html

民主化後韓国と日本の外交関係を悪化させた政治家としては記憶されるべき人物ですね。


2015年には敗戦時に戦犯問題を避けるため戦犯の証拠になりそうな公文書を焼いてしまえ、と主張し焼却の指令書を書いたことを自慢げに語ってもいます*1。産経記事では「先の大戦末期、本土決戦や省庁の終戦処理業務に当たった」とだけ書かれています。

あと戦時中の1943年当時、鹿児島県警察部特高課長だった奥野氏は俳句同人誌「きりしま」の同人を治安維持法違反で検挙しています。

 たとえば、有名な「きりしま」弾圧事件では、鹿児島日報(現南日本新聞)の記者2名、販売員1名をはじめとする総勢37名が鹿児島県警察部特高課に治安維持法違反並びに不敬罪で検挙され、記者2名は起訴猶予、販売員は懲役2年・執行猶予4年の有罪判決を受けている。
 当時、鹿児島県警察部特高課長だった奥野誠亮は、(1) 食糧難から馬肉を食す心境を綴った句が「厭戦的」である、(2) 南国花である椿の赤色の見事さを賛美した句が「共産主義の肯定」である―との理由から同人が共産主義者であると断定し、検挙に踏み切った。
(引用者:丸1、丸2をカッコに変更した)

http://www5.sdp.or.jp/special/kenpo/164teruya.htm

改めて見るととんでもない経歴ですねぇ。ああ、もちろん産経記事には書かれてません。

2016.11.17 10:50更新

奥野誠亮元法相が死去、103歳 保守政治家の最長老

 法相、文相などを務め、閣僚経験のある政治家として最長老だった奥野誠亮(おくの・せいすけ)氏が16日夜、老衰のため、東京都渋谷区神宮前5の7の10の自宅で死去した。103歳だった。葬儀などは未定。
 奥野氏は大正2年、奈良県生まれ。昭和13年に東京帝国大学卒業後、内務省入省。高知県警本部長、自治省財政局長を経て、38年に事務次官。同年、衆院議員に初当選(13回連続当選)。文相、法相、国土庁長官、自民党安全保障調査会長などを歴任した。
 官僚時代は、先の大戦末期、本土決戦や省庁の終戦処理業務に当たった。占領期は地方税財政のエキスパートとして、連合国軍総司令部(GHQ)と渡り合った。
 衆院議員として、派閥全盛の時代に無派閥を貫いた。自民党総務局長を6期務めるなど「選挙のプロ」の顔があった。
 歴史問題や憲法改正問題で筋の通った主張をした保守派の論客として知られる。法相時代の55年8月、国会答弁で自主憲法制定の信念を披瀝し、野党が反発したこともあった。
 国土庁長官だった62年5月には、国会で、先の大戦について「日本に侵略の意図はなかった」「盧溝橋事件は偶発的」などと答弁したことが批判され、閣僚を辞任した。
 古都保存法の制定を推進するなど、奈良の平城宮の復元や明日香村の史跡保存に尽力した。「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」の初代会長だった。
 平成15年の衆院選に出馬せず、議員を引退。アジア福祉教育財団の名誉会長を務めていた。
 平成27年11月には、東京・内幸町の日本記者クラブで会見し、戦後70年を経ても自主憲法の制定が実現していないことについて「いつまでたっても戦後は終わらない。そろそろ自前の憲法を作ろう」と訴えた。
 長男は衆院議員の奥野信亮氏。二男は東大名誉教授の奥野正寛氏。

http://www.sankei.com/politics/news/161117/plt1611170009-n1.html