南京事件は、蒋介石の国民政府軍が南京防衛戦で日本軍に敗れ、その結果として多くの中国兵や民間人が日本軍に虐殺されたり、暴行を受けたり、略奪されたり、強姦されたりした事件です。事件そのものに中国共産党は全く関わっていません。むしろ蒋介石の戦争指導を批判する立場でした。
アジア太平洋戦争が日本の敗戦で終結した後に南京大虐殺に関する戦犯裁判を行った主体も蒋介石政権の中国でした。
BC級戦犯裁判である南京軍事法廷では死体の残らなかった被害者も含め30万人以上が虐殺被害者とされ、A級戦犯裁判である東京裁判では死体の残らなかった被害者も除いて20万人以上が犠牲者とされました。現在、中国の南京大虐殺記念館に掲げられている「30万人」という数字は南京軍事法廷での犠牲者数に起因します。
つまり蒋介石の国民政府下での判決に基づいた犠牲者数を、共産中国でも踏襲しているわけです。中国共産党は国共内戦で大陸での政権を取った以上、統治下の民衆に南京事件等の犠牲者・遺族を含むことになります。
ですが、共産中国は別に南京事件をもって「反日教育」などしませんでした。もともと戦後中国では、日本の一部の軍国主義者が悪いのであって一般の日本人が悪いわけではないという教育の方が強かったと言えます。
実際、南京大虐殺記念館が建設されたのは1985年になってからです。
建設のきっかけとなったのは、日本国内での南京事件否定論です。
1970年代に「南京大虐殺のまぼろし」などの南京事件否定論が日本ではびこり中国侵略を正当化するような動きが出てくると、ようやく日本右翼による歴史修正主義に対抗するために中国でも南京大虐殺記念館を建設するなどの歴史教育を重視するようになりました。
南京大虐殺記念館の朱成山館長は「日本に否定論がなかったなら、南京大虐殺記念館は今もなかっただろう」とも言ったそうです*1。
日本の右翼は南京大虐殺記念館を目の敵にしていますが、中国国内にも別の意味で南京大虐殺記念館の在り方に疑問をぶつける人たちがいます。
例えば、王錦思氏ですが、南京大虐殺記念館建設が中国の主体的な動きではなく日本国内の否定論に対する反作用としてであることを挙げ、中国側での研究の主体性の無さを嘆いています。洞富雄や本多勝一のような良心的な日本人がいることや、日本には「東史郎日記」がありドイツには「ラーベ日記」があることを挙げ、中国自身がちゃんとした史料を収集していないことを指摘してもいます。
そしてこういう指摘をしています。
南京大屠杀死难人数30万以上,精确不到万位,详细名单仅仅3000多人。2004年8月6日,广岛公布原子弹受害死难者共253008人,精确到个位,名单详细记载。
http://blog.voc.com.cn/blog_showone_type_blog_id_745495_p_1.html
上海大学の朱学勤教授も2007年に同じような指摘をしています。
「朱学勤:我们该如何纪念南京大屠杀」
この朱学勤教授とは、アパホテルの元谷外志雄に南京事件否定論者に仕立て上げられた名誉棄損の被害者です。この点についてリテラが詳しく報じています。
さらに、唖然としたのは、〈上海大学の朱学勤教授が「いわゆる南京大虐殺の被害者名簿というものは、ただの一人分も存在していない」と論文で発表したにもかかわらず、辞職もさせられていない〉として、それを南京事件がなかったことの証明のように主張していたことだ。
http://lite-ra.com/2017/01/post-2862_2.html
元谷氏のいう「朱学勤教授の論文」が何を指すのか、調べてみると、どうやら産経新聞2007年12月20日付記事が元ネタらしい。それによれば、南京事件70周年の翌日、リベラル系中国紙「南方都市報」に朱学勤教授の論文が掲載されていたという。その内容について、記事では〈パール・ハーバーの記念碑には犠牲者の姓名がしっかり刻まれていたのに、南京大虐殺記念館には30万人の犠牲者の名前はない〉と引用されている。
この時点で、元谷代表の言い分がかなり歪曲されたものであることは自明だが、たしかにこの論文で朱教授は、南京事件の犠牲者の“名簿がない”ことについては言及している。しかし「南京事件は存在しない」と言っているのではない。逆だ。
ウェブマガジン「ChinaFile」12年6月12日付に、その論文と思われる朱教授の文章が、英訳で引用されている。これによれば、中国では、長らく大衆が南京事件について議論することを禁じられており、それが許されたと思ったら、地方自治体がすぐさま虐殺の記念碑を造りだして、大衆の前に“30万”という数字が出てきた。一方、真珠湾の記念館やベトナム戦争の記念館ではすべての犠牲者の姓名が刻まれており、とてもディティールに富んでいる。朱教授はこう述べる。
http://lite-ra.com/2017/01/post-2862_3.html
〈30万を殺すことは虐殺であるのに、20万から10万あまりであれば虐殺ではないのか? それが1人か2人ならば、命ではないのか? 私たちの目の前にある“30万”は曖昧な概念であり、(犠牲者個人が思い浮かぶような)ディティールのある数字ではない。そして、概念では人々を納得させることはできない。かわりに、人々に猜疑を芽生えさせ、日本に言い逃れのための口実を与えさえする。私たちは決定的な数字を使うべきであり、最も良いのは、具体的に個人の名前を刻むことだろう。そうしたときだけ、私たちは他者を畏敬させ、国際社会から敬意を得ることができる。〉(編集部訳)
つまり、南京事件では多くの人が犠牲になって、追悼するに十分な理由があるのに、世界から敬意を払ってもらえていない。それは、中国政府がもち出す30万という数字だけでは、犠牲者ひとりひとりの人間像が表れないからだ。朱教授はそう指摘し、犠牲者の名前を掲載しない中国政府の態度を批判しながら、追悼のために犠牲者個人の名を刻むことを求めたのである。そして、上っ面の数字にこだわると、犠牲者の命という本質を忘れてしまい、歴史修正をされかねないと警告までしている。
こんな発言で辞職にならないのは当然だろう。いったいどこをどう読めば、「南京虐殺はでっちあげであり、存在しなかった」という根拠になるのだろうか。
先の王錦思氏も朱学勤教授同様に南京事件否定論者に仕立て上げられる被害を受けています。加害者はRecord Chinaです。詳しくは以前の記事に挙げていますが、ごく単純に言うと中国語の王錦思氏をRecord Chinaが日本語に翻訳する際にトリミングを行い、王錦思氏が南京事件を否定しているかのように改竄するやり方です。
【一例】
(原文)南京大屠杀死难人数30万以上,精确不到万位,详细名单仅仅3000多人。2004年8月6日,广岛公布原子弹受害死难者共253008人,精确到个位,名单详细记载。
http://blog.voc.com.cn/blog_showone_type_blog_id_745495_p_1.html(Record Chinaによる日本語訳)
広島には「被爆者白書」があり、犠牲者の数も25万3008人と正確な数字が出ているが、南京大虐殺で名前が分かっている犠牲者は3000人ほどしかいない。
「死难人数30万以上,精确不到万位」にあたる部分が日本語訳からは抜け落ちています。
ところで王錦思氏や朱学勤教授は中国内の異端的な存在なのでしょうか?
少なくとも現在は、彼らのような考え方は異端とは言えないでしょうね。
人民日報にこんな記事があります。
http://j.people.com.cn/94475/8490976.html80後・90後の8割、「南京大虐殺の発生時期を知らない」
2013年12月20日13:11
19日付河南商報で「80歳老人から寄せられた『南京大虐殺』報道をめぐる手紙」に関する記事が報じられると、多くの人が南京大虐殺に関して自分が覚えていることを思い出そうとした。河南商報と河南百度が共同で実施した「記憶に関する調査」の結果、「南京大虐殺が発生した時期をはっきりと覚えていない」と答えた人が8割を上回った。大河網が報じた。○8割以上が「正確な南京大虐殺の発生時期を覚えていない」
19日付河南商報に、ある南京大虐殺の証言者が新聞社に手紙を送り、「私はこの歴史を決して忘れることはできない!」と訴えたことに関する記事が掲載された。だが、33歳以下(1980年代以降生まれ)の若者に対する調査の結果、回答者の8割は、「南京大虐殺が発生した時期をはっきりと覚えていない」と答えた。
大学職員の王氏は、「たしか冬だったと記憶しているが、何年に起こったのか分からない」と答えた。さらに、「歴史的事件は中国人にとって極めて大切な出来事だが、発生した時期までは正確に覚えていない。南京大虐殺の詳細については、それをテーマとした映画を観て、多くのことを知った」と続けた。○過半数は「映画やテレビドラマで情報を知った」
「我々は、この事件が全中華民族にとっての災難であると認識し、心に刻みつけなければならない」という王氏のコメントと調査結果は一致しており、回答者のほぼ全員が、「南京大虐殺は全民族が受けた深い傷であり、決して忘れてはならない」と考えていた。
とはいえ、王氏と同様、歴史の詳細まで了解している人は少ない。歴史補助教材の編さんに携わる孟氏は、「この仕事についていなければ、中国近代史に対してこれほど多く理解していなかっただろう。現行教科書では、南京大虐殺についてそれほどページを割いて記述されていない」と話した。
「記憶に関する調査」の結果も、孟氏の言い分が正しいことを裏づけている。「『南京、南京』や『金陵十三釵』の映画で南京大虐殺のことを知った」と答えた人の割合が52.6%だったのに対し、「教科書で知った」とした人は39.2%、「『拉貝日記』や「南京暴行:忘れられた大虐殺』などの歴史書を自発的に読んで知った」はわずか8.2%だった。○分析:根本的原因は「歴史に対する姿勢」
河南省実験高校で2年歴史を担当する劉向峰先生は、「高校の歴史教科書では、南京大虐殺について記述されたページは確かに多くはなく、教科書全体に占める割合はあまりにも少ない。これでは、学生たちの記憶に残らない。さらに、現代の生活はペースが速すぎるため、ほとんどの人が、過去の歴史に対する認識を疎かにしてしまう」との見方を示した。
河南大学歴史文化学院の趙金康教授は、次の通り指摘した。
歴史を専攻している大学生でも、そのほとんどが南京大虐殺の歴史についてあまり多くを知らないが現状だ。その直接原因は、歴史教育を疎かにしていることだが、根本的な原因は、歴史に対する我々の姿勢にある。
たとえば、ユダヤ人の受難の歴史について例をあげると、彼らは第二次世界大戦中にナチスドイツに殺害された仲間の個人情報、行方、死亡した場所などに関する完璧な統計データを持っている。このような正確で信頼に足る証拠を突きつけられると、ドイツ人は一切反論などできない。ところが、我々中国人は、「大体30万人」という言い方しかできず、一体どこの誰が犠牲になったのかを知るための正確な統計資料は存在しない。歴史に対峙する姿勢がいい加減であれば、歴史問題において受け身的な態度になり、記憶も曖昧になる。正確で客観的な事実と統計データ・資料との間に大きな隔たりが生じると、多くの人が「はっきりと、しっかりと頭に刻みつける」という選択を放棄してしまう。(編集KM)
「人民網日本語版」2013年12月20日
反日教育?何それ?って感じの状況ですが、それはともかく河南大学歴史文化学院の趙金康教授の指摘が、王錦思氏や朱学勤教授とほぼ同じ内容ですね。
犠牲者名簿については、1995年時点で3000名程度判明しており、その後8000名程度が追加されている状態です。ただし、これには軍人が含まれず民間人犠牲者だけで10000人以上が判明しているということになります*2。
少なくとも最近の中共政府は個々の被害者についての情報収集にもそれなりに力を入れていると言えそうで(不十分だという指摘もあるでしょうが)、犠牲者の名簿だけでなく生存者や遺族の証言もちゃんと収集しています。
中国での南京事件研究は、その方向性において趙金康教授や王錦思氏、朱学勤教授とおおむね同じとみて良さそうです。