12の食材のうち一つでも腐っていたら、それらを使ってできた料理は食べられない

何かというと、この話。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
  明治二十三年十月三十日
  御名 御璽

天皇家が血みどろの争いを繰り広げた歴史をきれいさっぱり修正して「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」とか嘘っぱちを並べる冒頭から真面目に読む気が失せる“ありがた~いお言葉”である教育勅語の件。
擁護論者がよく用いる言説として、12の徳目のうち11までは普遍的だとか良いこと書いているとかいうものがあります。ただ、12の徳目を一体として教育勅語が構成されている以上、タイトルで述べたとおり、腐った徳目が1つでもあれば教育勅語自体も食べたら腹を壊す腐った“料理”なわけで、廃棄されるべきものなんですよね。
出てきた料理が腐っていたら、普通は料理ごと棄てるのであって腐ってない食材があるはずだとか言って掻き分けたりするのはちょっとどうかと思います。

で12の徳目とやらですが、列挙すると、孝行・友愛・夫婦ノ和・朋友ノ信・謙遜・博愛・修学習業・智能啓発・徳器成就・公益世務・遵法・義勇 となります。

ところでこんな文言があります。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=321CONSTITUTION&openerCode=1

「日本国民は、恒久の平和を念願し」や「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」は「博愛」にあたり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というのは「朋友ノ信」にあたりましょうか。続く「われらの安全と生存を保持しようと決意した」は「謙遜」ともとれます。
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」というのは「友愛」でもあり、「修学習業・智能啓発・徳器成就・公益世務」でもありますね。

別の箇所の「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」は「遵法」ですかね。
そして「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」は、「義勇」でもあります。

上記で引用したのは言うまでも無く日本国憲法の前文です。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=321CONSTITUTION&openerCode=1

というわけで、日本国憲法はその前文において教育勅語にあった12徳目のうち「孝行」と「夫婦ノ和」以外の全てのものを新たな解釈を持って含めているわけです。
ちなみに「夫婦ノ和」にあたる部分も憲法24条(婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない)に存在しますし、24条2にある「家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」は「孝行」をも含むと言えます*1

では日本国憲法教育勅語と何が違うのかというと、教育勅語の解釈上は存在しない平和主義(「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」)、教育勅語の文言上にも存在しない自由(「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」)を含む基本的人権の思想、そして国民主権(「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」)です。
いわゆる日本国憲法の三大原理、これが教育勅語には皆無ですよね。

そして形式も大きく違っています。
教育勅語天皇から臣民に対する事実上の命令という形式。これに対して日本国憲法は「日本国民」である「われら」が「決意し」「宣言し」「念願し」「誓ふ」という形式です。

国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=321CONSTITUTION&openerCode=1

だからこそ教育勅語は排除されました。

 思うに、これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。
教育勅語等排除に関する決議)

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/0512/main.html

というわけです。

70年前、戦後直後の日本人はこう考えたともいえます。

もし神がいて神の教示があったとしても私は一考し それが正しいか正しくないかは自分で決めます。
DEATH NOTE (ジャンプ・コミックス)

70年経ってもなお“現人神”の教示にすがろうとするのはどうかと思いますね。



*1:親に対しても子に対しても「個人の尊厳」を尊重するわけですから