「移行作業中 – Just another WordPress site」で民度について書かれており、興味深く読ませていただきました。
内容としては、「民度」は意味が曖昧であり、使うべきではないというものです。
「民度」という言葉はやはりその本質的曖昧さゆえに、恣意的に拡大解釈して相手の民族や国民全員にレッテルを貼ってしまう危険性と隣り合わせであると思う。それは本来批判しようとする対象となる人々を見えなくさせる。「民度」は歴史的経緯を見てもその意味とその言葉が指すものは非常に曖昧なのだ。ゆえに「民度」という言葉は「民度が高い」人々なら極力使うべきではないと思うのだがどうだろうか。
http://kousyoublog.jp/?eid=2715
私自身も「民度」という言葉を使っており、実は使うに際し定義を調べたのですが明瞭な定義がないことを知りました。とは言え、私自身が表現したい内容を的確に示せる言葉も思いつかず、それを使っています。まあ、自分の中での定義はあるんですが。
ところで、ネットで調べた限りでは、本多勝一氏の定義が見つかったのですが、これには確かさらに元ネタがあったように思いますし、この定義もやはり意味が曖昧であるようにも思えますし、私自身が表現したい内容とも違うんですよね。
民度とは何か?本多勝一氏の定義を一部借用すれば、国民がまわりの流れに押されず、自分でものを考え、歴史や地理からどのくらい教訓を得ているかの度合いである。
http://www.union-net.or.jp/cu-cap/mindo0720.htm
そしてそれは政治の世界に重大な影響を及ぼす。
で、私自身が「民度」というときの定義ですが、以下のような感じです。
自分が保有するリソースを母数とし、自分と利害関係にない第三者の救済のために割けるリソースの割合。集団を対象とする場合は、その最頻値。
厳密に定義したい場合はさらに条件などを追加する必要があるでしょうが、核となるのは上記のような内容。
個々の人について言えば、自分と関係ない人のためにどれだけ自分の時間や資産を割くことができるか、という指標です。貧者の一灯と富者の万灯と灯りの数だけで比較しないように個々の保有リソースが母数にしてます。
集団を対象とした場合は、ごく一部の資産家の寄付で集団全体の民度を誤らないように、最頻値をとります。
というわけで数値化可能な定義にしていますが、まあ実際に計算するのは難しいでしょうね。年収とボランティアのための出費・時間の統計でも取れば、ある程度は集計可能でしょうけど。
そういうわけで私が民度の高低を語るときは具体的な数値を想定しているわけではなく、民度計算に影響する要素の増減の蓋然性を前提としています。
他の人がどういう意味で「民度」を使っているかは知りませんが、利他的な行為がどの程度できるか、というイメージでそう間違っていないとは思うんですよね。
ついでに応用的に考えてみますと、民度が低い状態はリソースを自分の利害関係に割いている割合が多いことを示していますので、自分の利害得失という視点が視野が固定され他者の視点で見直す余裕を持っていない状態を示唆することになります。
領土問題において相手側の視点をまるっきり欠いた視点で社会の論調が流されている状態がそれに当たります。自己の主張(それも多くの場合はメディアなどの受け売り)を別の視点で問い直すこともできず他者批判に偏った状態ですが、これも一般的な「民度」のイメージから言えば、低いと言われる状態だとは思います。