憲法に関する三通りの考え方

個人的な認識であって専門的な話じゃありません。

国民主権の民主主義国家においては文字通り、民が主であるわけですが、主権者たる市民によって形成される社会においても市民間の利害調整や社会運営の様々なコストが必要であることに変わりありません。この利害調整・社会運営を委託する機関が政府*1であって、市民はそのための権限を政府に与え、同時に政府が市民を無視して暴走しないように制約もかけなければなりません。その権限と制約を明記したものが憲法であって、政府は憲法で許される範囲でしか権限を行使できない、という考え方です。
いわば、市民が自らを統治するための道具として政府を用いるという考え方で、憲法は道具を正しく使うためのマニュアルといった感じです。民衆が成熟した市民であれば、道具が暴走しないように意を砕き、政府で対応できない部分は市民自らがNGOといったいわば自助組織を立ち上げ、自らの社会を自ら調整することができるでしょう。政府はあくまで道具であって、政府に何でもかんでもやらせることも、統制無く政府に丸投げすることもしないだけの成熟さが求められます。


もう一つの考え方ですが、国民主権・民主主義を標榜していても無知蒙昧なる民衆が自ら統治することなど不可能とみなされ、君主・貴族・前衛など色んな名称がありますが、ともかく優秀な統治者階層で形成される政府が民衆に対して統治方針を示し民衆を従わせる必要があります。その統治方針を示したものが憲法であるが、あくまでも方針に過ぎず、民衆を善導するという目的のためなら政府は憲法を逸脱しても構わない、という考え方です。
憲法を護っても国が滅びたら意味が無いという考え方で、憲法はスローガン的なものといった感じです。統治民が成熟した市民であれば、憲法を逸脱する政府は一体、何を権力の源泉としているのか、といった疑問を抱きますが、未成熟で自らが主権者であるという認識に欠けた民衆であれば、政府は自分たちのためにやってくれていると盲信して、政府が憲法を護るかどうかには大して興味を示しません。その代わり、困ったことがあれば何でもかんでも政府がやってくれるはずだという過剰な期待を持つ傾向があり、NGOなどは育ちにくく、要求と権限が政府に集中し肥大化します。


三つ目の考え方ですが、一つ目が“市民があって政府がある”という市民優位型、二つ目が“政府があって民衆がある”という政府優位型、これらに対して、市民と政府は対等であるという考え方です。市民は自らの社会を運営するための機関として政府と対等の契約を結び、市民は利害調整・社会運営の利便を得る一方で税金や服従などのコストを支払い、政府は
税収や市民の服従といったリソースを得て社会の安全・安定を市民に提供する義務を負う、という考え方です。
市民と政府のお互いがどんなコストをかけどんな対価を得るかを明記したものが憲法であって、契約である以上お互いに憲法を遵守する必要があるという考え方になりますが、市民と政府の力関係が均衡していなければ成立しない考え方でもあります。政府の力が強い場合、政府が契約内容の解釈を一方的に変更し市民には異議を唱える機会が与えられない恐れがあります。市民の力が強い場合*2、そもそも政府権限が強く制約され対外的に無力な政府になりやすく、結果として社会が安定しない可能性があります。

これらをそれぞれ、市民優位型、政府優位型、市民・政府対等型とすると、民主主義の主権者として成熟した市民による社会であれば市民優位型の解釈が妥当でしょう。欧米西側各国はこの傾向が強いと思います。
政府優位型の解釈は、民主主義の主権者として未熟な民衆の社会に対してはそうあるべきか否かは別として適切かも知れません。戦争法強行採決の過程は政府優位型の解釈で説明できますが、そうあるべきかと言われれば、そうあるべきではなく、安倍政権のやり方は憲法違反として非難されるべきだと思います。あるがままを受け入れる現状追認主義であれば、日本は政府優位型であり、政府が良かれと思ってやったのなら憲法に抵触しても違憲と非難すべきではない、という考えもあるでしょう。
ちなみに、政府優位型の憲法の事例としては、共産党という民衆の前衛が統治する形態の中華人民共和国などがありますね。強権的な政党・集団が支配し平穏な政権交代が起こりにくい国家ではよく見られる傾向ではあります。
市民・政府対等型は、安定的な例としては地方政府の権限が比較的強い連邦制国家と言えるかもしれませんが、その場合地方政府に焦点を当てれば市民・政府対等型では無くなるでしょうから、不安定な例の方が良いかもしれません。一応は憲法があり、政府も市民もその憲法下にあるにもかかわらず、双方が憲法に敬意を払わない状態です。政府は支配を強化しようと憲法を無視する一方で、市民の側も政府に対し武力反乱も辞さないような状況でありながら、お互いに憲法を護れと非難しあう状態、辛亥革命後の中華民国などはこんな感じですが、現代だとほとんど無政府状態にある国か、地方の有力部族を上手く懐柔しながらでないと政権を維持できない国ですね。

日本に市民・政府対等型を当てはめるのは無理がありますが、仮に当てはめるとすると、安倍政権による戦争法強行採決解釈改憲違憲とは言えないという判断も出来ます。つまり政府側の一方的な解釈変更に対して市民側が実力行使していない以上、市民によって容認されたとみなすという解釈です。
市民と政府が対等の契約当事者であるという考え方ですから、一方の契約当事者が契約違反をごり押しした場合には、他方の当事者はそれを拒絶するか契約破棄を明示する必要があります。黙っていたら黙認とみなされ、違反された内容で契約内容が上書きされ、双方の合意が成ったものとされても文句は言えません。契約書の実際の文言とは関係なく、契約当事者間で追認された事実が効力を持ってしまうわけです。この考え方なら、自衛隊日米安保も市民による黙認状態が長期化していることから合憲、戦争法についても直ちに違憲とは言えず、今後黙認状態が長期に渡って継続すれば、合憲化するという解釈になります。

現状どうなのかという話と本来どうあるべきかという話

個人的な認識としては、日本の現状は政府優位型だと考えています。政府が勝手に解釈改憲を行っても、市民側にはそれを拒絶する手段が事実上存在しないわけで実際にそのようなごり押し改憲が繰り返されてもきました。自衛隊日米安保はごり押しの好例ですが、一方で合憲であるとの体裁は取り繕い、市民側の反発を減らそうともしてきました。しかし、安倍政権による集団的自衛権行使容認と戦争法強行採決は、その箍も外れた上、違憲立法を合憲化するために改憲せよと迫る有様で、政府優位型としか評しようがありません。
ただ、本来国民主権の民主主義国家は、市民優位型の考え方を取るべきだと私は考えています。
それ故に戦争法は違憲だといわざるを得ませんし、集団的自衛権行使容認を違憲だという解釈を支持するわけです。

政府優位型であるべし、と考えている人はそもそも市民として憲法に向き合うことを放棄し、解釈を全て政府に委ねているわけですから、当然、合憲だとか違憲だとは言えないとか主張します。
市民・政府対等型であるべし、と考えている人は政府の憲法解釈に反対する市民は革命を起こしてでも政府を止めるべし、と主張するのが筋でしょう。少なくとも憲法には革命禁止を明示していないわけですから。

*1:行政府の意ではなく、政府機関全体を指す意。

*2:連邦国家成立前の分裂状態くらいしか想定できませんけど