となると課題として浮かび上がるのが、侵略戦争についても戦争犯罪の多くについても日本の責任を(保守派なりに)はっきりと認めている論者がこと「慰安婦」問題に関してはなぜああなのか、という問題だ。反対に、日本の戦争の侵略性は否定するが「慰安所」制度については深刻な人権侵害で誤りであった、とする論者が見当たらない、少なくとも目立たないのはなぜなのだろうか。「慰安婦」問題の否認の核にあるのは何であるのかを考えるうえで、念頭においておくべきことの一つだろう。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20130219/p1
南京大虐殺に見られる捕虜・民間人虐殺に対して日本の加害責任を認める論者は右翼・保守の中でも少なくありませんが、従軍慰安婦問題になるとこの加害責任を認めない右翼・保守論者がほとんどです。この傾向は、右翼・保守に限らず、当時の参戦兵士全般にも見られるように思います*1。
この点については私も以前から疑問に思っていたところで、自分なりの仮説を考えてはいますので、とりあえずつれづれに述べておこうかと思います。
最初に南京事件にしても従軍慰安婦にしても、事実として存在したことなので、それ自体を否定するような保守・右翼はここでは対象外とします。事実ではあるが、「必要悪」とか「やむをえない」「当時は普通」という弁明をする保守・右翼を対象とします。
日本の右翼・保守の基本的な考え方として、天皇を家長とし国民を子どもとみなす家族的世界観があります。この世界観では、戦争は、天皇と国民が一家として協力して別の家族(国家)と争うという視点になります。
保守・右翼の美学では、天皇を頂点とした日本という家族は戦争に際しても正々堂々と敵に対するべき、となります。このため、南京事件のように既に降伏して捕虜となった兵士や民間人を日本軍が虐殺すると言う行為は、美学に反しており、そのために保守・右翼にとって南京事件は加害責任を認めざるを得ない戦争犯罪となるわけです。
ところがこの世界観で見ると、従軍慰安婦は天皇を頂点とした日本という家族の一員となります。保守・右翼の考え方では、従軍慰安婦は兵士と共に天皇の為に尽くした戦友であり、兵士が命をかけ戦場で戦い貢献するように、従軍慰安婦は兵士に性を捧げて貢献するという協力関係です。家族が協力し合うように、兵士も慰安婦も協力し合う。慰安婦がその協力を拒むということは、保守・右翼にとっては兵士が敵前逃亡するに等しい行為に見える。家族の一員が裏切ったように見える。
だからこそ、保守・右翼は、従軍慰安婦が戦争犯罪などとは認めない。確かに貧困などの理由で兵士相手の売春をせざるを得なかった境遇には同情はするが、兵士だって徴兵され命をかけたのだ、お前だけ身勝手な主張をするなど「家族として」許せない。そもそも日本という家族の中のことは家族内で決めることであって、揉め事を家族の外に出すのは恥をさらすことだ。海外諸国を巻き込んで従軍慰安婦を問題化させるなど何と恥さらしなことをするのか、とこういう認識なのではないかと考えています。
保守・右翼の美学では、家族内で起きた問題は、家族の中で片付け、外に出さない。従軍慰安婦は日本という家族内の話であるので、外から問題視されること自体認められない。そして保守・右翼の美学では、家族内で起きた問題は、家長が専断して構わない。家長に従わず外に揉め事を出そうとする者は許せない、となるわけです。
もちろん戦後、朝鮮・台湾が日本から離脱した為、植民地での慰安婦に対して、この家族観を押し付けるのは筋違いですが、それだけ感情的なものがあるように思えます。
とまあ、大ざっぱで取り留めのない考察ですが、ブレインストーミング的に思いついたことを書いてみました。