1945年頃の日中戦争の情勢に関する学問レベルの基本的な認識

参考までに引用。

(「中国抗日戦争史」石島紀之著、青木書店、P184-185)
 日本軍の大陸打通作戦も、解放区の局部的反攻に有利な条件をあたえた。支那駐屯軍*1は約半数の兵力を京漢作戦に投入したので、華北における日本軍の「治安」能力が大幅に低下したからである。共産党は、日本軍がおそれていた大規模な武力反攻こそおこなわなかったが、八路軍民兵の活動は活発化し、日本軍の後方地域では、分屯隊への襲撃、交通線の破壊がひんぱんにおこなわれた。北支那方面軍第一二軍司令官内山英太郎が「作戦間従来ノ占拠地域ノ治安急激ニ悪化ス」とみとめたように(『一号作戦(1)』)、日本軍の支配地域は、各地で縮小しはじめた。
 局部的反攻の状況を解放区ごとにみてみると、反攻がいちじるしく進展した山東省では、魯中・濱海・魯南・膠東・渤海の五軍区がすべて大きく発展し、晋察冀辺区も一九四〇年の状況を上まわる回復を示した。晋冀魯豫辺区でも、あらたに河南省西部に豫西解放区を建立し、晋綏辺区でも三千余の村を回復した。日本軍側の記録をみても、四四年秋、北支那方面軍管轄下の四〇〇県中「治安良好とみられるもの」は一・五パーセント程度にすぎず、共産党支配下の県は三〇パーセント強を占め、県数にして約三分の二の中間地区も、日本軍がおさえているのは県城とその周辺の村だけで、民心は「中共側に傾くものが多い」という状況だった(『北支の治安戦(2)』)。
 華中でも、新四軍は積極的な反攻をみせた。長江北の蘇中区と蘇北区は、一九四四年一一月日本軍の封鎖を打ちやぶって、単一の蘇北解放区を形成した。津浦線東の淮北解放区では、三月から反攻が開始され、洪沢湖北岸は完全に新四軍の支配下にはいった。武漢北方の鄂豫皖解放区は、一九四五年初めには人口九二〇万を支配する大解放区に発展した。その他、蘇南・皖中・淮南・浙東などの解放区の新四軍も、大量の日本軍・傀儡軍を殲滅し、多数の拠点をうばい、解放区を拡大した。
 華南では、広東の抗日遊撃隊東江縦隊は、一九四四年中に数千人から一万人以上の部隊に発展し、広州市と香港市をおびやかした。海南島の瓊崖解放区もさらに拡大し、一五〇万以上の人口を擁するにいたった。
 この一九四四年の局部的反攻における八路軍・新四軍・華南抗日縦隊の戦果は、中国側の記録によれば、戦闘二万余回、日本軍・傀儡軍の死傷ニ六万余人、回復した県城一六、うばった拠点五千余、回復した国土八万余平方キロメートル、解放した人口一二〇〇余万人といわれる(何幹之『中国現代革命史』)。この間、各解放区では、減租減息がさらに徹底して実施され、地主的土地所有は大きく後退した。闘争の過程で農村の権力構造も変化し、村政府から旧支配層が一掃された(田中恭子「中国の農村革命」)。


中国抗日戦争史

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*1:支那派遣軍の誤記