第三次魯東作戦(「と」号作戦)

1942年11月~12月に行われた第三次魯東作戦は、強制労働を強いるための中国人を狩り立てる作戦として知られています。戦史叢書ではこのように記載されています。

(戦史叢書「北支の治安戦<2>」P240-241)

第三次魯東作戦(「と」号作戦)

(一一・一九~一二・二九)
 本作戦は第十二軍が、山東縦隊第五旅および同第五支隊を基幹とする膠東軍区の中共軍を剿滅し、山東半島一帯の治安の回復、特に青島―芝罘道の確保を目的としたものである。独立混成第五旅団と第五十九師団、独立混成第六、第七旅団の一部が参加した。
 作戦地は魯西の平原地とは全く様相を異にし、錯雑した山岳地が多く、三面海に面した地域である。従って軍は、西方から東方に遮断網を推進して、敵を半島東部に圧迫殲滅する戦法をとり、且つ海軍部隊と協定して沿岸の警戒を厳重にした。

第一期

(十一月十九日~二十九日) 参加部隊はおおむね青島―芝罘道の線から遮断線を構成しつつ東進した。敵は鋸歯牙山その他山岳拠点では相当頑強に抵抗したが、平地部ではほとんど交戦することなく退避した。

第二期

(十一月三十日~十二月十二日) 牟平南北の線に遮断網を構成し、文登、榮成に蠢動を続ける東海区遊撃隊、各県政衛隊を包囲圧縮しつつ半島突端地区に進出した。作戦開始以来、十二月八日までの戦果は遺棄屍体一、一八三、俘虜八、七六五である。

第三期

(十二月十三日~二十九日) 各隊は反転して西進し、一部は海路輸送により敵の背後を遮断しつつ、主として芝罘―青島道以西の平度、掖縣、招遠付近において山東縦隊第五旅団、西海区遊撃隊を追及した。二十日以降各所で掃蕩戦を行ない相当の戦果をあげた。
 本作戦間、軍司令官は戦闘司令所を青島に設け、一時芝罘、牟平に進出して作戦を指導した。
 本作戦に参加した独立歩兵第二十大隊長田副正信大佐(26期)は次のような所見を述べている。

一 魯西平原地とはまったく異なり、兵力に比し地域が広大であって、山岳地帯内に網を張りつつ前進することは至難であった。
二 薄い包囲網であるため破られやすく、特に夜間敵に脱出されたことが数回あった。
三 中共勢力の拡大とその根拠地建設の進捗しているのが感ぜられた。
四 交戦したのは主に第三期であり、中共軍との接触、捕捉は容易でなかった。

事実上の日本の公式戦史である戦史叢書には、もちろん強制連行のためとは書かれていません。
ですが、怪しいところを見つけることはできます。

まず、戦史叢書では第二期までの戦果しか書かれていませんが、北支那方面軍の1942年12月24日の電報綴*1には、(電報中で)第三期終了とされた12月24日までの戦果が書かれています。

敵の損害

俘虜:12971(容疑者含む)
遺棄死体:1912
鹵獲品:小銃1124、軽機11、迫撃砲13、山砲1、馬匹776、自動車135

我が損害

戦死:8(内将校1)
戦傷:42(内将校1)

考察

中国側の損害は俘虜・死体あわせて約1万5000人に達していますが、日本側の損害は死傷あわせてわずか50人です。実質的な戦闘がどの程度あったのか疑問に思えるレベルです。また、鹵獲武器が極めて少ないのも特徴的です。俘虜・死体1万5000人に対して、鹵獲小銃は1124で10分の1以下です。5~6分の1程度は他の作戦でも見かけますが10分の1以下は珍しい方でしょう。

そして、俘虜・死体あわせて約1万5000人についてはもう少し興味深い情報があります。8か月前の1942年3月にも第二次魯東作戦が行われていますが、その際日本軍は敵情として「山東縦隊第五旅および同第五支隊を基幹とする膠東軍区の中共軍」の兵力を約1万と見積もっています。(第二次魯東作戦での戦果は俘虜106人、遺棄死体787人)
すると、第三次魯東作戦での俘虜・死体1万5000人は、山東省東部の中共軍総兵力を超えてしまいます。

まあ、日本軍の戦果報告に多少の誇張があったとして半分程度と見積もっても、これだけの損害を与えたのが事実なら第三次魯東作戦で中共軍はほとんど壊滅したと言える程度の被害を受けたことになるでしょうが、戦史叢書の記載を見ても壊滅させたとまでは認識していなさそうに見えますね。


*1:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13070316500、北支那方面軍電報綴 昭和17~18年(防衛省防衛研究所)」