三灶島事件に関する記述

長いですが、関連部分を引用します。

(「日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦」NHKスペシャル取材班、P344-354)

大井元大佐が言及したサンソウ島事件

 サンソウ島という名前を聞いて、何らかのイメージが湧く人はほとんどいないのではないか。私はテープを聞いた直後、その島が中国のどこにあるのかすら全く分からなかった。中国全土の地図を広げてみたが、それらしき名前の島を見つけることができなかったのだ。
 中国の事情に詳しい同輩に相談すると、中国では、軍事施設が含まれる場合には、小さな島は地図に地名が表記されないこともあるのだという。資料や情報収集の難しさを予見させる、そんな取材のスタートとなった。
「サンソウ島」を探して、わが国唯一の公刊戦史とされる戦史叢書と睨めっこする時間がしばらく続いた。すると、海軍関係の戦史を詳述した巻の中で、複数回「サンソウ島」と呼ばれる地名が出てきた。漢字表記は「三灶島」。戦史叢書によれば、日中戦争下、蒋介石率いる中華民国を軍事援助するため主にアメリカ、イギリス、ソ連が作った「援蒋ルート」の遮断を図り、海軍が昭和十三年一月に三灶島に上陸占領し、“昭和十三年四月、第十四航空隊基地として三灶島に飛行場を建設”したとなっていた。海軍が海外に獲得した初めての航空基地で、同年には、当時最新鋭の攻撃機が配備され、中国本土への爆撃拠点として使われていた。

「昭和十三年かね。サンソウ島事件というのがあって、私はその後行ったんですが、臭くて死臭が。あのサンソウ島に海軍の飛行場を作ったんです」

 反省会の中で、大井元大佐が語ったサンソウ島事件。戦史叢書に書かれた「三灶島」に関する記述と大井元大佐の証言内容が一致していた。「サンソウ島」は「三灶島」のことを指している。そう考えて間違いないと確信した。
 その三灶島、戦前の日本の新聞にも何度か登場している地名であることがわかった。
 沖縄の地方紙であった「沖縄日報」の昭和十四年の記事によると、海軍が島を占領した翌年の昭和十四年五月には、島内での食糧増産のため、沖縄から農業移民が派遣される方針が決定している。さらに、入植直前に沖縄県が実施した三灶島に関する事前調査の報告記事もあった。
「△△島には一千町歩の広大かつ肥沃な水田が広がっており住民は一人もいない。そこに五十世帯前後を派遣すれば、最も理想的な田となるであろう。島に入ってしばらくは生活は海軍が世話する。海軍も大変歓迎している。米は最終的には海軍が買い取ることになると思われ、三反歩前後の野菜も海軍に納めることになるという」
 興味深いのは、農業移民が送り込まれる先の三灶島の名前が黒塗りになっていたこと。三灶島は海軍航空基地の島として、当初国内では軍事機密扱いになっていたことが窺える。昭和十四年暮れになると、ようやく黒塗りが外され、新聞記事に「三竈(灶と同意)島」という島名が記載されるようになる。

 さて、新聞記事にあった「住民は一人もいない」との記述が気になった。
 昭和十四年九月に三灶島に向け第一次の移民が渡っている。その新聞記事を頼りに私たち取材班は沖縄に飛んだ。新聞に地名の出ていた沖縄本島南部の旧大里村。この村で聞き取りを続けると、当時成人していた移民の多くは既に亡くなっていた。しかし幼少期や国民学校時代を三灶島で過ごしたという元移民が健在であることがわかった。
 個別の記憶は曖昧であるという理由から、今は沖縄各地でそれぞれに暮らしている元移民たちに旧大里村の公民館に集まってもらい、証言を聞くことになった。その数八名。最高齢は移民当時十歳だったという八十歳の男性で、それぞれ昭和十四年ないし十五年に入植。昭和二十年の敗戦の混乱の中、命からがら日本に帰国した苦難の経験を共有している。公民館に一人またひとりと親族に付き添われてやってくると、さながら同窓会のようにお互いが再会を祝しあっていた。重々しい雰囲気での聞き取りになるのではと覚悟していた私たちにとっては、意外なほど和やかな空気の中、証言取材は始まった。
 入植当時の島の様子を聞くと、広い田んぼや畑が手付かずで放置されていたこと、元々の島の住人たちは、そのほとんどが島の外に逃げていたらしく、既に空家となっていた家々に入居したこと、移民の役割は田畑を整え、海軍に米や野菜を納入することだったこと、さらには、島に残っていた中国人は農繁期に各戸に手伝いに来ていたことなどを、それぞれの記憶をたどりながら証言してくれた。
 日本人移民のほとんどは沖縄出身者で、終戦までに入植したのはおよそ四百人。海岸沿いの平地に築かれた海軍航空基地を扇の要の位置とすると、移民たちは基地を囲むように、出身地ごとに集落を営み、その更に外側に、元々の住民であった島に残った中国人が集団で移住させられたという。移民家族の生活は、基本的に沖縄での暮らしとほぼ同様であったというが、ただひとつ、沖縄での暮らしと大きく違うことがあった。それは、各戸に海軍から拳銃が配られ、成人男性には射撃訓練が課され、毎晩交替で海岸線の見回りに出ていたことだという。銃など持ったこともない父親や親族が険しい表情で夜な夜な警戒に出かける姿を、それぞれが鮮明に記憶していた。農業移民といっても、いわゆる屯田集落として、海軍基地を守る人垣としての役割も担っていたのだろう。
 ある程度の証言を聞いた上で、私たちは、最大の関心事について聞いてみることにした。移民が入植する前、海軍が島民を殺害したのかどうか。元移民たちはそれぞれに顔を見合わせるようにゆっくりと記憶を確認しているようであった。まず最年長の男性が口を開いた。
「はっきり詳しいことはわかりません。そういう噂はあったが・・・自分たちが島に行った時にはもう飛行場は完成していたし。直接見たわけじゃないので」
 この男性の発言をきっかけに、当時国民学校に通っていた男女の何人かが、入植当時の事を証言した。そのうちのひとりが、
「島に行った時期は骨がね、畑なんかにあちこち転がっていて、泣いていましたよ、お母さん達は。恐ろしい恐ろしいって言ってね」
 証言をしてくれた元移民たちは皆、入植時に十歳前後ということもあり、記憶は断片的であった。そのため、大井元大佐のいう三灶島事件の概要が明らかになるような証言を得ることはできなかった。私たちは国内での関係者捜索や海軍資料のリサーチを並行しつつ、現場となった中国・三灶島にわたり、現地取材をすることに決めた。

現地取材から見えてきた海軍支配の実態

 三灶島は中国本土南部、香港の西およそ八十キロに位置する周囲約十数キロの小さな島だった。沿岸開発の結果、いまは大陸と地続きとなり、島ではなく三灶鎮と呼ばれる行政区となっている。中国人民解放軍の兵舎が置かれるなど、軍事施設も含まれるため撮影の難しい地域であることが事前取材で伝えられていた。
 取材班は、ここまでの全ての取材を共にしてきたカメラマンの佐々倉大、音声・証明マンの森山正太に加え、通訳コーディネーターの楊昭氏と私の計四名。番組放送の四ヶ月前にあたる二〇〇九年四月初旬に広州経由で現地入りした。
 経済特別区・珠海市金湾区三灶鎮は現在、北京や上海などから直行便が乗り入れる、中国本土最南端の空港を抱え、順調な経済成長を続けていた。この珠海空港は、七十一年前に海軍が作った滑走路を土台に整備されたものだった。
 三灶鎮の中心地に入って我々がまず驚いたのは、多くの日本企業の工場が並んでいるその光景だった。日本の食品メーカーや機械メーカーが進出し、地元の雇用創出に貢献している。案内役の三灶鎮共産党委員はそう解説してくれた。これから自分たちが取材しようとする内容を考えたとき、非常に複雑な思いに至った。
 一見、近年の経済成長で様変わりしたかのように見える島。しかし、空港の他にも、住民やゲリラを監視するために設置された、集落を見下ろす丘上のトーチカなど、海軍が島を占領していた当時の痕跡が今もあちこちに残っていた。
 私たちはまず、現地の公文書館にわずかに残されていた「三灶島」に関する中国側の資料を繙いてみた。戦後にまとめられた『中山抗戦初期史料考述』(中山市文史資料委員会編)。この戦史によると「三灶島に上陸・占拠した日本軍は昭和十四年四月十二日から十四日まで島で大虐殺を展開。まずは魚奔村で五百八十六人を殺害、続いて全島三十六の村落に同時に放火、三千二百四十軒の家屋、百六十四艘の船を焼き払った。この三日間の犠牲者は二千人余りにも達した」となる。さらに「飛行場建設のため日本軍は現地および中山県で強制労働のために人びとを拉致、飛行場の建設後には彼らを虐殺、あるいは海の中に追い立てて溺死させた」と記されていた。
 私たちは、まずは専門家の意見を聞こうと、この辺り一帯の戦史や戦後史を編纂・検証しているという珠海市共産党歴史委員会の主任研究員を訪ね、この事件の裏付けがどこまでなされているのか、あるいはなぜ、戦後の戦犯裁判で事件が訴追されていないのかを聞いてみることにした。
 文書資料に覆いつくされた自室で取材に応じたこの主任研究員は、非常に穏やかな態度で私たち取材班の来訪を迎え、
「歴史を取り戻すことはできないが、歴史から不断に教訓を受取ることはできる」
 そう言って、二時間にわたって私たちの取材に丁寧に応じた。主任研究員によると、中国側資料の住民殺害の実態や被害者数などは、終戦後の聞き取りをベースにしているが、聞き取り時の一次資料が紛失しており、どの程度信憑性があるものなのか、今も検証が続いていて、市政府も具体的な被害者数を公的には表明していない事件なのだという。しかし、戦中、島に暮らしていた人たちへの聞き取りから、海軍の上陸・占領後、少なからぬ島民がスパイ容疑などで殺害され、また、残された島民は滑走路の建設や軍施設の造営のために、総動員で駆り出されたことは疑いようがないという。
 さらに加えて、大陸南部のこの辺り一帯は、戦後、非常に難しい立場に置かれたため、戦争被害の実態が解明されずに六十年以上が経過することになったとも指摘した。
 つまり、日本との戦争が終了した後、中国では蒋介石率いる国民党軍と毛沢東率いる共産党軍の国共内戦が激化。そのため対日戦そうの被害実態の把握など二の次にされた上に、日中戦争の当時、国民党側が大陸南部を実質的に支配していたため、内戦に勝利した共産党政権が、この地域の戦争犯罪の掘り起こしに熱心ではなかったのだという。そういった諸事情が複雑に絡み合い、実態解明が進んでこなかったのではないかと示唆した。
 次に私たちが希望したのは、海軍の上陸占領時の様子を記憶にとどめる島の住民の取材であった。しかし簡単には進まなかった。何しろ七十一年も前の出来事である。当時十歳の子どもが八十一歳になる。この地域に詳しい、鎮政府の広報担当・張氏が連日私たちの取材に同行し、集落ごとに「海軍が島を占領したときの記憶を話してほしい」と説得してまわった。話を聞きに訪ねた高齢者は二十人あまり。当初は、既に任地賞を患ってしまっていた老婆、記憶は鮮明だが、海軍が上陸した直後から島を離れてしまっていた老人など、該当者が現れない状況が続いた。
 島に入って三日。ようやく探し求めていた人物に出会うことができた。
 滑走路と隣り合わせの地区に、当時から暮らし続けている陳福炎さん、七十七歳。海軍がこの島を占領したのは陳さんが七歳の年。当時まだ子供だったが、激変した島の様子を鮮明に覚えており、また後日、周囲の大人から聞かされたことも証言してくれた。
 まず、海軍の上陸直後、歩哨兵が島の見回り中、何者かに殺害された。それ以降、海軍の島内集落への厳しい対応が始まった。住民は夜陰にまぎれて島外に逃れるか、島内での移住を余儀なくされ、海軍管理下で暮らすことを強いられたのだという。島に残された住民の生活は、極めて制約の多いものになったようだ。
 陳さんの証言である。
「昼間でも夜でも雨風が吹き荒れるようなときでも、彼らは全員の名前を点呼するんです。老若男女、年齢まで一日二回。その都度基地に連れて行かれたのですが、集落の村人全員で行かなくてはなりませんでした。真ん中にも周囲にも機関銃を持った人が立っていて包囲されていました。通訳が私たちに言いました。人数が合えば安全に帰ることが出来るが、一人でも多かったり少なかったりしたら、面倒なことになる、殺されると。あるとき、私の両親、それから私の叔母たちが連行されていきました。そのときは内心とても怖かったです。兵士や、機関銃がそこにあるのを目にしました。私は二回、連行されました」
「海上を封鎖され、海に出られなくなり、島の外の世界との連絡を遮断され、夜、他の家を訪ねることも禁じられました。私たちがもっとも苦しかったのは、マッチすらなかったことです。米、野菜、果物はすべて自分たちで育てたものでした。でも、火を点けるものがありませんでした。原始的な生活は大変な困難を伴いました。船の行き来ができないので、あらゆるものが島に入って来なくなりました。大変貧乏をしたことが忘れられない」
 島に出来あがった海軍航空基地。そこでは、爆撃機の発着回数など、海軍にとっての重要な機密を守るため、陳さんたち住民はその行動を徹底的に管理され、島の外に出ることは一切禁止されたのだという。
 陳さんは、海軍によって多くの住民が殺害されたことは明白な事実だと、繰り返し強調した。自身、親族も失っている、と言う。陳さんの隣家に暮らしていた当時三十歳前後の従兄は、海軍占領下の拘束を嫌い、同志たちと島を脱出しようとして捕まり、スパイ容疑で銃殺されたのだという。私たちに生前の従兄の写真を見せながら、悔しそうに語る陳さんの声は怒りで震えていた。

実態窺わせる日本側資料『三灶島特報』

 中国入りの直前、私たちは、占領直後の島の様子を僅かに窺い知ることができる海軍側機密資料を発見していた。東京・恵比寿にある防衛研究所の収蔵資料の中にあった『三灶島特報』。三灶島に建設された第六航空基地司令官の手による報告書で、上陸占領から五ヶ月後に第一号(一九三八年六月十五日)報告がなされ、第五号(同年十月一日)までの計五巻が存在した。毎月の戦闘機の出撃状況や戦果、島の治安の様子などが、作戦報告として海軍省人事局に送付されていた。
 報告書によれば海軍の上陸から三ヶ月で、島民は一万二千人から千八百人弱に激減。島民自身の逃亡に加え、島北部の集落への大規模な「掃討作戦」が行われたためだと記されている。当時、各地で抗日ゲリラが組織され、三灶島でも島北部を哨戒していた日本兵が襲われ、死亡。その結果、スパイ嫌疑で掃討したとある。

 島でのもう一人の証言者は、島北部の集落に暮らしていた李義興さん、八十三歳。事件のあった当時は十二歳だった。夜明け直後に突如やってきた数十名の日本兵グループが村の成人男性全員を一斉に捕まえたと証言する。李さんの父親も同じく捕まった。
 その翌日、村に十数名の日本兵が戻ってきて、今度は残っていた女子供・老人を川沿いに並べて、一斉に射撃したと李さんは証言する。李さんは、死体の間に倒れたことで九死に一生を得る。そのとき、たまたま村はずれにいた母と、八歳と四歳になる二人の妹を連れ、家族四人で山中に逃れたのだという。
 実際に一斉射撃を受けたという集落内の川沿い。そこに立ち、記憶を語る李さん。収録する私たち取材班は、あまりにも重い告白に圧倒されていた。しかも李さんの、感情の起伏を感じさせない淡々とした語り口が、証言する者の口惜しさを際立たせていたように思う。しかし、耳を傾けるのも辛いような思い証言は。これだけに留まらなかった。
 李さんたち一家四人の、日本兵の影におびえながらの山中生活は、四ヶ月にも及んだ。家族は木の実を食べ、雨水で飢えをしのいだが、四歳の幼い妹が、次第に憔悴していったという。そんなある日、家族が息を潜めるそのすぐ近くまで、山狩りをする日本兵が迫った。そして、李さんは、戦後も誰にも話したことがないという告白をする。
「突然妹が泣き出したのです。お腹が空いたか何か別の理由があったのかもしれません・・・このままでは家族四人とも終わりでした」
「何度もためらいました。でも心を鬼にして妹を絞め殺したのです」
 その時まで淡々と、むしろ穏やかともいえる口調で証言を続けていた李さん。このときばかりは声を詰まらせ、そして大粒の涙を浮かべながら嗚咽した。そして、何度も何度も「妹を絞め殺した」と懺悔のように繰り返した。通訳を介して私たちに伝えられる、あまりにつらい告白に、私たちはカメラを止めることもできず、一同茫然とその場に立ち尽くしていた。
 海軍が占領してから終戦に至るまでの七年半、三灶島でどれだけの住民が命を失ったのか。正確な数字を明らかに出来る資料は、現段階では日本側にも中国側にも残されていなかった。
 一方、大井元大佐が反省会で証言するような、飛行場建設に関わる大虐殺が起こったのか否かも、今回の現地取材では、全体像を明らかにすることは出来なかった。
 しかし、私たちが、ほとんど知ることのなかった不幸な出来事が、かの地で確実に起こっていた。この継承されなかった負の歴史をどう清算するのか、重い宿題が浮かび上がった。そんな思いで中国での取材を終えた。


事件を時系列に並べてみると以下のようになります。

1938年1月、日本海軍が三灶島に上陸占領。
1938年4月、第十四航空隊基地として飛行場を建設。
1938年6月〜10月、三灶島特報1号〜5号を作成。
1939年4月、日本海軍、三灶島内での2000人規模の虐殺。
1939年5月、三灶島内での食糧増産のため、沖縄から農業移民の派遣方針決定。

私は番組でざっと聞いていただけでしたので、漠然と日本海軍が上陸直後に住民を虐殺し、残った住民に飛行場建設の為の強制労働を課したように認識していましたが、時系列的なスパンを見るとそう単純な事件ではないようです。
三灶島特報には「海軍の上陸から三ヶ月で、島民は一万二千人から千八百人弱に激減」とあるようですが、おそらくは元の島民人口が1万2000人だという資料と3ヶ月後の1938年4月時点で海軍側が掌握していた島民の数が1800人だという資料があるのだと思われます。
実態としては、以下のようだったのではないでしょうか。
1938年1月の上陸直後、多くの島民は逃げるか山中へ隠れ、日本軍が労働力として利用できる掌握下の島民は1800人だった。少なくとも4月までは飛行場建設が最優先で、日本軍も飛行場用地とその周辺のみの警戒に専念していたと思われます。その警戒していた歩哨が山中に逃げた元住民らにより組織された抗日ゲリラに襲撃されるなどしたのでしょう。山狩りや集落での強制的な点呼などで対応したものの、むしろ民心離反させる結果を招き治安は回復しなかったと思われます。
こうした日本軍の苛政によって逃亡する島民も相次ぎ、その中で日本側が思いついた対策が、日本人を移住させて食糧生産と警戒の補助をさせようという移民計画でした。しかし、いかに屯田的な性格を持たせると言っても民間人ですから、治安の悪い状態の島に送り込むわけにはいきません。移民募集までに治安改善のためにも抗日ゲリラを一掃する必要を軍当局を感じたと思われます。その結果が、1939年4月の2000人規模の大虐殺となった、とすれば上記の時系列をよく説明できると思います。
とは言え、現時点では、やはり史料が不足していると言わざるを得ませんので、何らかの新史料の発見が望まれるところではあります。