四方氏の研究

嫌韓バカが李氏朝鮮時代を誹謗するのに良く使われる史料として、京城帝国大学教授の四方博氏の研究がある。
以下の表は有名なので、見たことも多いかと思う。

身分別戸数とその比率(大邱慶尚道

  両班 (%) 常民戸 (%) 奴婢戸 (%) 総数 (%)
1690年     290 9.2% 1694 53.7% 1172 37.1% 3156 100%
1729・32年   579 18.7% 1689 54.6% 824 26.6% 3092 100%
1783・86・89年 1055 37.5% 1616 57.5% 140 5.0% 2811 100%
1858年     2099 70.3% 842 28.2% 44 1.5% 2985 100%

(「両班(ヤンバン)―李朝社会の特権階層 (中公新書)」宮嶋博史、中公新書、1995、P198)

身分別人口数とその比率(大邱慶尚道

  両班 (%) 常民 (%) 奴婢 (%) 総数 (%)
1690年     1027 7.4% 6894 49.5% 5992 43.1% 13913 100%
1729・32年   2260 14.8% 8066 52.8% 4940 32.4% 15266 100%
1783・86・89年 3928 31.9% 6415 52.2% 1957 15.9% 12300 100%
1858年     6410 48.6% 2659 20.1% 4126 31.3% 13195 100%

(「両班(ヤンバン)―李朝社会の特権階層 (中公新書)」宮嶋博史、中公新書、1995、P199)

これを引用して、李朝末期の朝鮮は人口の半分が両班で異常な社会であったと主張する嫌韓バカが多い。ネット嫌韓だけじゃなく、右翼ロビイストも同様の主張をしている。例えば、嫌韓ロビイストの中ではまだまともな方と思える呉善花であるが、著書「韓国併合への道」P23-24で以下のように述べている。

 両班たちの「不毛な争い」が李朝末期にいっそう激しいものとなった第一の理由は、両班人口の増大にある。感触を得られなくても両班身分は世襲されたから、金で両班の地位を買ったり、ニセの資格証を売ったりということが、十数世代も繰り返されてきた結果、あやしげな自称両班が膨大に増加したのである。
 京城帝国大学教授だった四方博氏の計算によると、両班人口は1690年には総人口の7.4パーセントだったが、1858年には、なんと48.6パーセントにまで増加しているのである(「李朝人口に関する身分階級別的観察」『京城帝国大学法学部論集・朝鮮経済の研究3』所収)。
 人口の半分が支配階級の身分などという国がどこにあっただろうか。
 彼らの職分は官僚であり、官職以外の職につけば両班の資格はなくなる。しかし官職は限られている。というわけで、彼らの多くはなんら働くことなく、ただ官職獲得のための運動を日夜展開した。当然のようにあらゆる不正が蔓延し、両班という身分を利用して庶民から強奪まがいの搾取をすることが日常的に行われたのである。

(「韓国併合への道」呉善花、文春新書、2000、P23-24)

引用部分だけでも、冷静に考えて、人口の5割が働かず残り5割が搾取されているような社会構造が成り立つわけがないのだが、理解できないのだろうか?

あと、四方氏の計算はあくまで大邱のみを対象とした研究であって、何の断りもなしに

人口の半分が支配階級の身分などという国がどこにあっただろうか。

などと書くのはどういうことだろうか?おそらく呉善花は、四方氏の研究そのものを読んでいないのだろう*1

ネット上の嫌韓サイトも同様であろう。

そもそも両班って?

呉善花は先の引用部分でも、両班について、「両班身分は世襲された」「金で両班の地位を買った」「両班の資格はなくなる」「両班という身分」などと書いている。

しかし、実は両班というのは明確に規定された身分や地位・資格ではない。

日本の江戸時代の武士階級と違い法的に規定されたものではなく、為に流動性の高い階層なのである。今で言えば、セレブと言った方がわかりやすいだろうか。
セレブの条件としては、年収だとか職業だとかが考えられるだろうが、それは絶対条件ではない。高い年収だとか、医者の妻だからと言ってセレブと呼ばれるとは限らない。セレブと呼ばれる条件はそういった明示的な条件よりむしろ、その生活態度といったほうがしっくりくるだろう。
優雅な生活を送り、それを維持している限りはセレブというのが定義といえよう。

両班もこれと同じである。両班であるための絶対的な条件は存在しない。両班両班であるためには両班的生活を送る、という生活態度が条件だった。

 朝鮮時代に一つの特権層として存在していた両班に関して、その概念を正確に規定するということはきわめて困難なことである。しかしここで一つだけ明確に言いうることは、それが法制的な手続きを通じて制定された階層ではなく、社会慣習を通じて形成された階層であり、したがって両班と非両班との限界の基準がごく相対的であり、主観的なものであったという事実である。朝鮮時代の社会階層を論じる際にもっとも警戒すべき点の一つは、それをかの中世ヨーロッパや徳川期の日本に存在した階級制度と似通ったものと錯覚してはならないという点である。たとえば、徳川期の日本社会に存在した士農工商の区別はあくまでも法制による、したがって強制性を帯びたものであったが、朝鮮時代の士農工商は(工商は例外となるが)そうしたものではなかった。
 しかし両班と非両班との限界基準が相対的であり、主観的であったからといって、それは曖昧模糊としたものであったと考えるならば、それは誤りである。実際においては至極明確な基準があった。ただその基準は成文化された、そしていつ、どこででも適用されうる客観的なものではなく、与えられた状況により異なって設定される、すなわち、ある特定の地域の特定の状況の下で、関係者たちの意識構造上に設定される、主観的かつ相対的な基準であった。

(円光大学校教授の宋俊浩氏による「朝鮮社会史研究」1987年、ソウル・一潮閣刊、P37からの宮嶋氏による引用)
(「両班 李朝社会の特権階層」宮嶋博史、中公新書、1995、P19-20)

このように、両班なるものは、関係者たちの主観的かつ相対的な基準で決められるものであり、「両班身分は世襲された」「金で両班の地位を買った」「両班の資格はなくなる」「両班という身分」などというのは、両班という概念を認識していない素人の認識といえる。

あえて、日本の例でたとえると、「サムライ」とは法的な武士階級のみを指す場合と、階級に関わらず武士道を心得ている者を指す場合とがある、ということになろうか。


では、四方氏の研究による「両班」とはいかなる基準で判定したのだろうか?
その基準が宮嶋氏の「両班 李朝社会の特権階層」に載っている。

 それでは四方氏の研究で示されたような身分制の変動、特に両班戸口の著増という現象は、一体何を物語っているのだろうか。この問題を考えるためには、研究のもととなった戸籍大帳という史料の性格をあらためて吟味する必要がある。というのは李朝時代の戸籍は、各人の身分を把握することを第一義的な目的として作成されたものではないからである。国家が三年ごとに戸籍を作成しつづけたのは、戸籍に登録された各人に役を賦課するためであった。李朝時代の人々はその身分に応じて、国家に対してさまざまな役を負担しており、これを職役と呼んだ。職役の代表的なものは、常民身分のものが軍役であり、これは実際に兵士になるか、兵士になる代わりに綿布などを納めるものであった。そして両班たちは、学問を修めて官僚となることが期待されるものとして、職役は免除されるか、ごく軽い役を負担するだけであった。
 李朝時代の戸籍に記録されたのは、各人が負担すべきこの職役名なのであり、決して両班とか常民という身分が記録されたわけではなかった。先に紹介した四方氏にはじまる戸籍研究も、この職役名を手がかりとして、職役名から各人の身分を推定するという方法をとっていたのであり、戸籍上の身分構成の変動が、ただちに現実の身分制の変化を示すものと捉えることはできないのである。具体的に言えば、18、19世紀における両班戸、両班人口の著増という現象は、戸籍大帳上で「幼学」*2という肩書(これも一種の職役名と考えることができる)を有する者が急増したために生じたものである。しかし「幼学」という戸籍上の肩書をもつものがすべて、身分的な階層としての両班として、社会的に認知される存在であったとは決して言えないのである。18世紀になって郷吏層に対して「幼学」の称号が認められるようになった*3ことはすでに述べたが、18世紀以降、郷吏層以外の者も戸籍に「幼学」の職役で登録される者が激増していったと考えられるのである。
 本書の第一章で述べたように、両班というものは国家の法制的な制度として成立した身分ではなく、あくまでも社会的な認知を必要とする存在であった。したがって国家の作成した戸籍大帳において両班な肩書をもつ者増加したとしても、それは社会的な身分階層としての両班が増加したことを意味するわけではないのである。「幼学」の増加が意味することは、両班階層以外の者の両班への上昇志向を端的に示すものであり、両班的な価値観、生活観が下位の階層にまで浸透していったことを示すものと理解しなければならない。
 
(「両班 李朝社会の特権階層」宮嶋博史、中公新書、1995、P199)


つまり、四方氏の研究からわかるのは、特権階級としての両班が増えたということではなく、両班的生活を志向し実践する民衆が増えたということであり、庶民の生活水準がそれを許せる程度に向上した、ということである。

また、両班の特権であった「幼学」の権利が広く庶民に開放された*4ことを示しているわけである。

四方氏の研究結果は、決して、人口の半分が特権階級で残りの半分に対する暴虐な支配を行った、などという素っ頓狂な解釈が成り立つような内容ではない。

呉善花は韓国生まれながら、ろくに朝鮮史すら知らないのだろうか。あるいは中学・高校程度の知識で歴史を語っているのだろうか。いずれにせよ、史料を読む能力には恵まれていないようだ。経歴を見ると、「東京外国語大学大学院修士課程(北米地域研究)修了」となっているので、歴史については素人に毛が生えた程度のものであろう。*5

呉善花よりも低レベルな嫌韓ロビイスト

まあ、それでも崔基鎬よりはマシかも知れない。
崔基鎬も日本右翼に媚を売る嫌韓ロビイストの一人だが、「日韓併合の真実 韓国史家の証言」の中で次のように述べている。

 両班の人口が李朝を通じて異常なまで、大幅に増えたのは、両班が常民の犠牲のうえに、自分たちだけが恵まれた生活を送ったからだった。常民の生活環境といえば劣悪なもので、悲惨極まりなかった。
 両班は常民の妻や、娘や、財産をいつでも奪うことができたし、その生殺与奪の権を握っていた。常民は過酷な生活を強いられるなかで、淘汰されて、人口が減っていった。いったい、このような国を、国と呼ぶことができるのだろうか。
 李氏朝鮮では、常民は自滅するほかなかった。その結果として、両班だけが繁殖してはびこるようになったのだった。
(「日韓併合の真実 韓国史家の証言」、崔基鎬、ビジネス社、2003、P112)

四方氏の研究結果の曲解から、ここまで想像のみめぐらせるというのは、ある意味でその想像力を褒めたいところだが、すでに史家とは呼べないだろう。そもそも崔基鎬は経営科出身であって、歴史についてはやはり素人なのだが、「韓国史家の証言」と副題をつけること自体、詐欺じゃなかろうか?

ちなみに引用部分には何等根拠がないので、検証すらアホらしいのだが、一言で言えば、常民は人口比が1:9から5:5になるまで弾圧されても何の行動も取らんかったんかい?これだけで上記の崔基鎬説は破綻する。

さらにばかばかしいことに、崔基鎬は何の根拠もなしに上記のような断定文を書いておきながら直後にこう書いている。

 それでも韓国には、どうして両班の人口が李朝を通じて異常なまでに増えたのか、ということに着目した研究が、なぜなのか存在していない。韓国人は都合の悪い過去に、目をつむる性向がある。
(「日韓併合の真実 韓国史家の証言」、崔基鎬、ビジネス社、2003、P112)

つまり、崔基鎬の知る限り両班人口の変動を説明付ける根拠はない、と自分で言っているわけだ。

もちろん、実際にはちゃんと研究がされているわけで、四方氏の研究が大邱に限られているのに対して、他の地域でも似たような傾向があることなどが知られるようになっているのだ。

単に、崔基鎬が自身の勉強不足のため、知らないだけのことに過ぎない。
自分の不勉強を棚に上げて、

韓国人は都合の悪い過去に、目をつむる性向がある。

と書くあたりは嫌悪感しか感じられない。

韓国人一般の性向ではなく、崔基鎬個人の性向だと訂正すべきだろう。

*1:実際、巻末の主要参考文献には記載されていない

*2:学問に専念して科挙試験を目指している者に対する称号

*3:1729年、同書P189

*4:郷吏層への開放は1729年

*5:ちなみに、「両班 李朝社会の特権階層」の著者、宮嶋博史氏は、京都大学大学院文学研究科(東洋史学専攻)であり、出版時点では東京大学東洋文化研究所教授で朝鮮社会経済史専攻となっている。呉善花とは格が違う。